化粧品店はっぴーとーく樹音: トップへ

2006年8月フランス3,500kmドライブの旅 店主:東 賢太郎(58歳)
その1

  NEXT・>

今年はバイクが手配できず車でドライブ(16日間)
パリ、ローヌ・アルプ、プロバンス、コート・ダジュール、ブルゴーニュ、アルザス。
毎度のロマンとトラブルの貧乏旅行になりました。

<フランス共和国>
(人口)6700万人、(国土)日本の1.5倍、
(宗教)人口の8割がキリスト教カトリック、
(産業)西欧一の農業国、観光客世界一、ワイン世界一、
(国旗)青・白・赤のトリコロール,自由・平等・博愛を表している。



<37年振りのパリ>
 学生時代一人でヨーロッパを貧乏旅行して以来、37年振りになるパリに着いた翌日、私はまず黄色の2階建て観光バスで市内観光に出掛けた。 一日券25ユーロ(約3700円)でパリの主な名所を循環し、乗り降り自由で日本語案内もイヤホーンで聞ける。
 途中下車し、セーヌ河左岸にあり、元オルレアン鉄道の終着駅だった駅舎を改造して造ったオルセー美術館を訪問した。本来ならルーブルが先なのだが、あのピラミッド型のガラスの塔の入り口は凄い混雑で、せっかちな私はパスしたのだ。オルセーは駅の構内をそのまま美術館にしたなごりで、入り口を入ると高い天井の広い展示スペースには数々の彫刻がゆったり並んでいた。他のフロアに展示された絵画はモネ、ルノアール、ゴッホ等の印象派の名作が揃っている。フランスは名実共に文化大国で、文化省の予算は国家予算の1%を得て、歴代の大統領も文化振興を常に最重要政策の一つにあげている。



<バスの中で直接聞いた日本男性の過ち>
 2時間かけて見学した後、再びそのバスに乗り込んだ時である。オープンな2階席に上がると、後ろの席に70才位の日本人男性が一人で座っていた。挨拶し隣に腰掛けた。私は風景をデジカメで撮影しながら「カメラはお持ちじゃないんですか?」と聞くと、 「使い捨ては持ってるがけど、何だかもう写す気にならなくてね」とボソボソ話し始めた。
 カメラが一番の趣味と云う彼は、8日前に南仏にある地中海の港マルセーユ(パリに次ぐ大都市)に成田から降り立ち、プロバンス、そしてコート・ダジュールを周り、自慢のアナログカメラで20本以上写真を撮り、昨日ブルゴーニュのワインの里ディジョン(中都市)まで来た時のことだ。彼がオープンカフェで休んでいると、道を歩く初老のフランス女性と目が合い話し掛けられた。しばらく一緒にコーヒーを飲みながら旅の話をした。彼は50代の頃2年間ジュネーブで仕事をしたのでフランス語が理解できると云う。 
 話の途中我慢できずトイレに立った時だ、婦人が「トイレは狭いからバッグは置いていきなさい」と云う言葉に、「疑うのは失礼な気もして」とカメラバッグを預けたまま席を立った。しかしやはりまずいと、用を足さずにすぐ席に戻ると、もう婦人とそのバッグは消えていた。
「そんな気を使うなんて馬鹿だね、もう頭が真っ白でね」ウエーターに「婦人はどっちへ行った?」と聞いたが誰も見ていなかった。「探さなければ」と必死で町中を3時間歩き回った。賑わう人込みの中にその影はなかった。旅先で写したフィルムの半分もまだそのバッグに入れたままだった。
 ホテルに戻りベットに倒れ込むと、悔しさと情けなさで泣けたらしい。「あんな時って、おかしなもんでね、楽しく旅をしている最中は俺はまだまだ若い、これから年に3回は海外旅行だ、なんて思っていたけど、その時はもう大人しく余生を送ろうなんて考えちゃってね」と。 彼には写真仲間が多く、帰国後皆に見せるのを楽しみにしていたそうだ。念の為に警察には届けたそうだが、戻る見込みはゼロだろう。保険は適用されるが彼にとってはお金の問題じゃなかった。聞いた私もため息だ。しかし最後の言葉が印象的だった。「あんな婦人があんなことするんだね、苦労してるんだろうね、恨まないことにするよ」と自分に言い聞かせるように云った。
 私も2002年にバイクでイタリア一周の最中、南部の町バーリでデジタルカメラをスクーターの若者にひったくられた。その悔しさは同じだ。今回の旅も何かありそうだ、十分気を引き締めて旅をしようと思った。



<エッフェル塔>
 エッフェル塔も長蛇の行列でエレベータは一時間待ち。私は待たずにすむ階段を使った。1889年の万博を記念してエッフェルの設計で建造されたが、当時こんな鉄の塔はパリに似合わない、と一部の文化人や市民から非難を浴びたらしい。普段余り歩く機会のない私は、既に観光でかなり歩き、その後に第2展望台(123m)までの700段を一気に登った。いや、休みながら。その後3日間、足が疲労骨折したような痛みで苦しかった。



<レンタカーとの攻防>
 翌朝パリの北駅構内にある「ハーツ」でレンタカーを借りた。夏は必ずバイク旅行と決めているのに今回だけはレンタバイクの手配がつかなくて急遽車にしたのだ。海外では一国に一店位レンタルバイク屋がある。しかし夏の需要がほとんどの為、料金はレンタカーの約2倍と高い。車は安くて安全、と思うしかない。私は手続きの最後にポンと渡された取り付け式のカーナビと荷物を持ち、駅下の広い地下駐車場を一人でその車を探すことから始めなければならなかった。知らされた駐車スペースNO.にはなかったのだ。車の車種名は知っていても、色も形も知らない。猛暑のパリの地下駐車場は冷房も不十分で、汗だらだら、荷物ガラガラで10分以上、車の電子キーのスイッチを押しながら反応する車探しだ。  
 40m程先で「カタッ」と音がしてフロントランプが光った。やっと見つけたブジョーの車は、コンパクトだが室内はラグジュアリー、装備が凄くパワーもあった。
 ヨーロッパでは大型車をあまり見ない。それはどこへ行っても中世の町並みが残り、道幅が狭いからだ。その為イタリアでは特に大型車に掛ける税金が物凄く高いと聞いた。カーナビの設定にも時間がかかった。それにしても車の引き渡しの時ぐらい立ち会って、カーナビの取付設定もしてくれるべきじゃないか、と云うような要望は日本と違う場所では常識外の話なんだろう。



<ステンドグラスの聖地シャルトル>
 初めの訪問地はパリ近郊(イル・ド・フランス)、南西約80km地点にあるシャルトルだ。ここには世界遺産「ノートルダム大聖堂」(この名前はマリア崇拝の教会に多く各地にあるらしい)があり、ゴシック建築の傑作と云われ、172の窓(総面積2700m2)には、800年の時を経ても美しい「シャルトルブルー」と云わしめる幻想的な青光を放つステンドグラスがはめ込まれてある。何枚ものガラスを張り合わせて放たれるシャルトルブルーはこの地の光だから実現すると云う。
 以前にも書いたが、私のヨーロッパツーリングは日本のステンドグラス作家の平山健雄氏(旧友)の影響を受け、各地の大聖堂を巡る旅である。彼はパリで国立のステンドグラス学校を出て帰国し、横浜に「光ステンド工房」を開き、ヨーロッパ古典技法で日本各地に大規模なステンドグラスを提供している。このシャルトルで数年前個展も開いた。「同じヨーロッパでも場所によって、季節によって、時間によって注がれる光の波長は違うんだよ。だからその条件を考えて、ガラスを探したり特注するところからから始めるので、時間のかかる作業だよ」と。そんな難しい事は分からないが、行く先々の大聖堂で見事なステンドグラスの美しさと存在感に魅了された。
 そこに表現される絵の内容は、印刷技術のなかった当時、聖書の話や聖人伝説を古代は壁のフレスコ画で、そして天井を高く造る事が出来るようになった中世のゴシック建築の時代からは、このステンドグラスが文字の読めない民衆にその内容を教える重要な役目を担った。



 目の前のカフェに座り、空に届く程に高く突き上がったゴシックの大聖堂を見上げながら、ミラノ在住の作家、塩野七生さんの言葉を思い出した。ミラノ在住で知人のメイクアップアーチスト森田元氏がカフェの2階で彼女にメイクをしている時、窓の外に見えるドゥオモを眺めながら彼女がこう云ったそうだ。「私はこうして町の風景を眺めていると、そこで起こった歴史の光景がひとつひとつ映像となって見えてくるの」と。20年近くイタリアに暮らし歴史を研究し、それを本に書き続けた塩野さんの頭の中では、2000年を越えるイタリアの物語がまるで体感したかのようにいつでもリアルな映像となって目の前に蘇るのだろう。
 私も大聖堂を見上げながら平山氏が私に話して聞かせたことを思い出した。シャルトルの大聖堂は、広い農地に囲まれた町の中心に高くそびえていた為、11世紀に初めて建造されて以来何度か落雷で崩れ落ち、その都度皆の寄付と人力で復興を繰り返して来た。石造りではあったが、当時はまだ天井付近に木の梁が骨組みとして使われていたからだ。幸い多くのステンドグラスは焼け落ちる前に人々が必死で取りはずし、今に残ったものも多い。当時の人は信仰が一番で、大聖堂を百年、二百年かけ、祈りながら石を積み上げた。その行いが神に対する忠誠の証だったのだ。

<ジャンヌ・ダルクの町オルレアン>
 午後2時にシャルトルを出て、5時頃パリの南100kmに位置し、ロワール川に近いオルレアンに入った。この町は英仏百年戦争のまっただ中の1429年、フランス軍最後の砦であったこの町を包囲したイギリス軍に、田舎娘ジャンヌ・ダルクが神のお告げを聞き、軍を率いて勝利し英雄となった。しかしその2年後、内外の状勢の変化で彼女は宗教裁判にかけられ火刑となった。その後25年を経て、ローマ教皇により名誉は回復され、さらに1920年には聖者の列に加えられた。
 町の中央にあるマルトロワ広場には彼女が騎馬にまたがる勇壮な像があり、町のシンボルとなっている。



 バカンスでヨーロッパ各地から来た観光客でホテルは込み合い、訪ねた何軒ものホテルでコンプレ(満室)の言葉が返った。事前予約をしない私はフランス各地でこの「コンプレ」を耳にタコができる程聞かされた。もうひとつ耳にタコが出来た言葉がある。「サーキュレイティング ルート」(ルート検索します)日本程優秀ではないカーナビ(英語設定)の不明瞭な案内で、私は運転中何度も道を間違え、その度にカーナビが勝手にルートを検索しなおしながらこの言葉を発したのだ。合計200回以上はあっただろう。ただし耳にタコが出来ても心地良かった言葉もある。「ボンジュール ムッシュ:こんにちは」、「オルヴォワール:さようなら」は、カフェでも買い物でもどこでも必ず使われる。街で道を尋ねたりすると最後に「ボンヴォワイヤージュ:元気で旅して」と。それらはフランスを一人旅する私にいつも居心地良さを与えてくれた。
 ホテル探しは8軒目に広場のすぐ側に、2つ星の小さなホテルが見つかった。55ユーロ(約¥8000)「先に部屋を見ますか?」と鍵を渡された。小ぎれいで風呂付きで文句はない。実は他にホテルがなかった訳ではない。その倍以上の金額を出せばそんなに苦労なく見つかるのだ。しかし長旅で、夜も遅くまで飲み歩く私にとって、一人で寝るだけの部屋にそんな費用をかける予定はなかった。旅の後半で書くが車に寝たことも一度あった。
 ホテルの主人や家族(太った奥さんと可愛い2人娘)はとても親切で、東洋人が泊まることはめったにないと云いながら、安くて美味しいレストランや、観光名所を地図に印をつけながら丁寧に案内してくれた。昔と違い、今のフランスは、特に観光に関係する場所では英語が十分通用する。町のトラム(市内道路を走る電車)には、英語スクールの広告も目立ち、「なるほど」と面白かった。



 夜の10時頃やっと暗くなった街を、カフェやレストランを覗きながらひとりで散策した。どこを歩いても東洋人の私は目立ったようで皆が見る。カフェに入り、まず「ビエール(ビール)シルブプレ」と注文。すると決まってブランドや大きさを聞かれる。それはパリで慣れたので、一人前に答える自分のすました態度がデカイ。しかしそこまでで、近くの客にフランス語で話し掛けられると、とたんに小さくなっていた。しかし、開き直ってなんとか英語で会話する。そんな毎日が旅の間続いた。フランスでの日本人に対する感情は比較的よかった。しかし、スペインやイタリアでの大歓迎と比べると少し微妙だった。寝たのは午前2時頃だ。
 翌朝、大聖堂前の楽器店に入った。この旅に快く送りだしてくれた家内のリクエスト、シャンソンの楽譜探しだ。彼女はもう10年以上シャンソンを習い、ライブハウスやステージで歌う機会もある。歌うことは健康とストレス解消に最適だ。ピアフ、グレコ、ムスタキ、アズナブール他、それらを7冊、旅の始めに重たい本を買うのは辛いが、忘れることの出来ない最優先の仕事だ。開店一番の上客に店のおばちゃんは上機嫌で終止ニコニコ、「日本大好き」の連発だった。



<駐車場でトラブル>
 旅を急ぐ私は広場下の地下駐車場(どこの町にもある)から車を出した。トラブルだ。入り口にあった高さ制限1.8mの表示を気に掛けずにいた事が災いした。出口付近の梁に車の屋根にあったアンテナをぶつけ、根っこから壊してしまった。他の車より少し車高が高かったからだ。フランス全土の地下駐車場はどこもこれぐらいの高さ制限があった。お影で、もうその心配をしなくて済んだと自分を慰めたが、フランス語のラジオが全く聞けず残念だった。

<人々との濃密な触れ合い>
 苦あれば楽あり、だが私の旅は苦苦あれば楽の旅だったかもしれない。その日訪れた町「ブルージュ」は大雨。パリの猛暑、そして大雨、私は「どうなってるんだ〜」と叫びながらもバイクじゃなくて良かった、と少しホットした。予定のない旅は次にフランスのおへそ部分に位置し、昔貴族と司教達が多く住んでいた小都市「クレルモン フェラン」へ入った。そして翌日は、ここから150kmの山の奥にある「ル・ピュイ」に寄りたいと考えていた。スペイン西のはずれにある巡礼の聖地「サンチャゴ・デ・コンポステラ」へ続く「カミーノ・デ・サンチャゴ:巡礼の道」にあたるからだ。
 このあたりから私の旅はいろいろな人々との濃密な触れ合いの旅へと変わっていった。
つづく


  NEXT・>


Copyright 2006 JUNET INC. All Rights Reserved.