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2006年12月冬のイスタンブールひとり旅 店主:東 賢太郎(58歳)
その1

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<きっかけはイタリアのラベンナ>
 2002年の夏だった。私はイタリアバイク旅行の途中、ヴェネチアからアドレア海沿いに南へ少し下がった世界遺産の町「ラベンナ」を訪れた。この小さな街は402年に西ローマ帝国の首都となり、帝国崩壊後は東ローマ帝国(ビザンチン)が総督府を置きイタリア半島を統制していた。



 街の中心にあるサン・ヴィターレ教会のモザイク壁画「宮廷人を従えるユスティニアヌス帝」はその象徴でもある。ビザンチン帝国の影響が強かったこの街には、小さなカラータイルのモザイク壁画がたくさん残り、その精密さと美しさは千年の時を経ても色あせていなかった。
 当時まだ知識の薄かった私だったが、その後塩野七生のビザンチン帝国の滅亡を描いた「コンスタンチノープルの陥落」を読み、是非イスタンブールも訪れたいと思っていた。そして昨年末(2006)「冬のイスタンブールひとり旅」となった。



<トルコとイスタンブール>
 イスタンブールは過去、ローマ帝国、ビザンチン帝国の首都であった。そして1453年、メフメット2世が率いるオスマン・トルコによりコンスタンティノープルは陥落し、名称がイスタンブル(永遠の都)と変えられた。
 トルコは黒海の真下に位置し、西はギリシャ、ブルガリアの西欧に接し、東はシリアやイラク、グルジア、アルメニアの中東とアジアに接している。
 国土は日本の2倍、人口は7200万人。イスタンブールは近年驚異的な人口増加で、現在1400万人を越えるトルコ最大の都市である。首都はオスマン帝国が滅亡し、1923年のトルコ共和国設立時に、それまでのイスタンブールから中部のアンカラに遷都された。
 キリスト教を国教としていたビザンチン帝国は、オスマントルコに征服されてイスラム化が進み、現在のトルコは国民の99%がイスラム教となった。しかし戒律は大変おおらかで、酒も女性の服装も、他の宗教への差別も余り感じられない穏やかな国民性の国だ。
 イスタンブールはオリエント急行の終着駅でもあり、ヨーロッパとアジアを結ぶ交易の接点として、古代ローマ時代から2000年以上繁栄し、その証が旧市街には数多く歴史遺産として残っている。アヤソフィア、ブルーモスク、トプカプ宮殿、そして膨大な宝物の数々。



<トルコ航空成田発直行便>
 12月24日、運良くネットで購入できたトルコ航空は往復で17万円。1年前の同時期、空席だらけのロンドン行き「ブリティッシュエアウェイ」の2倍の料金だ。
 成田の搭乗口で、若い女性に声を掛けられた。
「東さ〜ん」、「えっ、お〜何でここにいるの」。業界関係の知人で、友人とトルコツアー参加だそうだ。何と帰国便も一緒。但し彼女達はトルコ一周の為、スケジュールの接点は全くなかった。もし互いに一人同士で特別の予定がなかったら、現地で一緒に食事したり、観光したりしたかもしれない。残念。但し、帰国後「彼等は偶然を装って・・・」などと噂されたに違いない。と余計な想像しながら搭乗した(笑)。機内は9割以上が日本人で満席。最近のトルコ人気に新ためて驚いた。



<親日国トルコとの関係>
 トルコと言えばイスタンブールの他にトロイの遺跡、古代エフェス都市、自然の奇景カッパドキア等、見るものがふんだんにある。そして世界でも一番と言える親日国家でもある。
 実は年明けのニュースで、明治23年に日本を親善訪問したトルコ軍艦「エルトゥール号」が、帰路の途中和歌山県串本沖で嵐に合い沈没した。その軍艦の引き上げ調査が始まったと報道したのだ。その遭難の際、串本住民が我が身を捨てて乗組員を救出し、苦しい食料事情の中で彼等を介護した。そして国も手厚く援護しトルコへ送り届けた。
 その後も、山田虎次郎が遭難で殉死した581人の軍人家族の為に寄付金を集め、トルコを訪問した。彼はそのままトルコに20年間留まり、日本語や文化の普及に努めた。この山田虎次郎の話は、先日ドキュメンタリーとしてNHKのBSで紹介されていた。それらの事でトルコは日本に大きな恩義と親しみを抱いた。
 さらに明治37年の日露戦争で、トルコに圧力をかけていたロシアを日本が打ち破ったことで、日本への尊敬と友国の念がさらに高まったのである。その歴史は現在もトルコ国民の心に語り継がれ、現在でも日本人は特に歓迎されるのだ。



<初代アタチュルク大統領>
 機は12時間のフライトでイスタンブール町外れのアタチュルク空港に着陸した。アタチュルクとはトルコ革命の指導者であり、1923年にトルコ共和国初代の大統領となった偉大な英雄の名前である。
 彼は大統領就任とともに、イスラム教を国教とする条文を憲法から外し、男性のトルコ帽の禁止や、女性のヴェールからの解放も実施した。そして日本の明治維新を参考にして一気に欧化政策を断行した人物である。

<旅の始まり>
 空港を出たのは夜11時頃、まだ地理感のない私はタクシーにした。出発前夜まず初日のホテルだけはと、ネットで旧市街にある「ザ・プレジデント」を予約していた。



 一泊1万円、主な見どころは徒歩圏内、ワイヤレスで自分のパソコンがネットに繋がる。それだけで決めたのだが、料金のわりにサービスもよく正解だった。
 翌朝徒歩2分のグランドバザールの入口付近は、トラムと人とタクシーでごった返していた。バザールは屋根付きで、オスマン帝国になった直後から開設され、時代とともに巨大化し、現在は5000の店と2000の工房がある。



 絨毯、金銀銅製品、陶器、衣類、あらゆるものが売られている。中は迷路のように奥へと伸びて、5分も歩くと今自分がどこにいるのか見当がつかなくなった。
 トルコの朝はチャイ(お茶)で始まり、チャイで終わる。アップルティーに砂糖をたっぷり入れ、腰がくびれた小さなグラスで飲む。バザールの中をそのチャイを2〜3杯トレイに乗せ、小走りで近くの店に出前する男達を沢山見た。店のスタッフが飲むばかりでなく、お客にも気軽にすすめる習慣だそうで、相当の数が出前されているようだ。



 私も一杯、出前専門の店先で立ち飲みした。1杯50円、甘いリンゴ風味で美味しい。店の男から「コニチハ、写真撮るよ、オオサカ?トキオ?、お土産安いとこ友達」との調子のいい声を受けながら、私の一日が、いやトルコの旅が始まったと感じた。

<トルコ人との出会い>
 迷いながらもどうにか元の入り口に戻れた。外にでて歩き出すと、英語で「日本人?どこに行くの?」と若いトルコ男性に声をかけられた。「ブルーモスクだよ」、「そう、僕もそっちへ行くよ」と云いながらが一緒に歩き案内を始めた。
 ブルーモスクの中はイズニック地方で作られたタイルで装飾され、特にブルータイルの紋様が印象的でその愛称が付いた。しかし本来はスルタンアフメットジャーミーの名がある。これは20才の「スルタン・アフメット1世」の命令で1609年からたった7年と云う驚異的な早さで完成したそうだ。
 モスクを囲むように6本の高いミナレット(鉛筆状の尖塔)が空につき上がるように立っている。これは他国のモスクも同じだ。
 すぐ隣にビザンチン帝国以来の最高傑作と云われる美しいモスク「アヤソフィア」がある。月曜日が休館のアヤソフィアを外から眺め、彼と相互に写真を取り合い、隣のトプカプ宮殿の入口で別れることになった。私はお礼に10トルコリラ札(1000円)を差し出した。すると彼は固辞した。「日本への友情からだ」と云う。私は驚きと後ろめたさを感じた。「この男は、案内料目当てか絨毯屋かも」と思っていたからだ。私は丁寧に礼を告げ別れた。後にそれが目的のトルコ人にも沢山遭遇したが、彼のような純粋な気持ちからの親切はそれ以上に多かった。真の友好とはこうゆうことなのか。

 



<スルタンとトプカプ宮殿>
 トプカプ宮殿はビザンチン帝国を征服したメフメット2世が建造し、370年間に渡り歴代のスルタンが生活と政務を行った建物だ。その建物の奥にはハレム(禁じられた場所の意味)があり、最大1000人の女性が暮らしていたと云う。当時男の権威と富の象徴だった一夫多妻制は、スルタンに限らずめずらしいことではなかった。禁止された今日でもその名残か、それともジョークか、タクシーのおやじさんに「奥さん何人?たった一人?俺は3人だよ、ハッハッハ〜」とやられた。昔は常に戦争がつきもので、戦死で男の数が少なかったことも要因かもしれない。
 トプカプ宮殿の展示室には大きな宝石をふんだんに使用したスルタン(帝王)の遺物が並び、「スルタンの宝剣」は映画「トプカピ」でも有名になった。一点一点ため息をつきながら見てまわり、しばらくしてボスフォラス海峡とマルマラ海の見える広いテラスに出た。
 イスタンブールはトルコの西端に位置し、ボスフォラス海峡を隔てて、ヨーロッパ側とアジア側に別れている。更にヨーロッパ側は細長い入り江の金角湾を挟んで、旧市街と新市街に別れ、それぞれは橋で繋がっている。その全ての海に接しているトプカプ宮殿の丘からの眺めは絶景で、昔は戦略上の重要地点であった。



<あるカップルとの出会い>
 真冬で冷たい潮風を受けながら海を眺めていたら、日本女性と西欧人のカップルに話しかけられた。日本語の上手なフランス人男性は考古学が専門で、一年近く日本に滞在し、各地を回ったと云う。日本女性は熊本の人で、当時通訳として知り合い結婚したらしい。寒いからか、仲が良いからか、話す最中も身体を寄せ合い、私に顔を向けるより、二人が見つめ合う時間の方が長かった。「オイオイッ」、この時ばかりはひとりで旅する自分がせつなかった。



 私が「塩野さんのコンスタンティノープルの陥落を」と云いかけた時、彼女がいきなり彼から身体を離し「私もなんですよ、塩野七生さんの本は全部読んでます。ローマ人の終焉がもうすぐ出るでしょう」と、目を輝かせて話し始めた。「コンスタンティノープルの陥落では、城壁に囲まれたこの旧市街が舞台で、あの海にも軍船が沢山出て」と彼女の頭の中にはそのイメージがギッシリ詰まっていた。それは私も同じだった。その歴史小説の舞台をそのシーンを思い出しながら歩いてみたかったのだから。
 まだ20代のオスマン・トルコの若きスルタンが、ビザンチン帝国最後の町コンスタンティノープル(現イスタンブール)を指して、「あの街をください」、と静かに云った一言でこの帝国の運命は決まった。このシーンは読者の誰もがシビレタに違いない。この歴史小説は、隆盛を極めるオスマントルコと、滅び行くビザンティン帝国の対比が鮮明に描かれ、歴史の面白さを味合わせてくれた。
 しばらく二人の話が弾む間、彼は優しい笑顔で聴いていた。彼女が「もしよろしければ今夜3人で食事しませんか?」と私を誘った。「いや〜でも」と云いながら私は彼の顔を見た。笑顔が消えていた。「ありがとう、でも今夜はベリーダンスを見にいきたいので」と冷や汗で辞退した。二人は又しっかり手をつないで建物の中へ消えて行った。何だかつかれた〜。



<トルコのB級グルメ>
 私は2時間で旧市街も新市街も一周する赤い観光バスでとりあえず街全体を巡り、地理を頭に入れた。
 冬で観光客が少ないのか乗客は7人、ドイツ、ロシア、フランス人、そして私。狭く曲がりくねった道路や坂道を、トラムと車と人が相互にかき分けるように移動している。頻繁に聞こえる警笛とパトカーのサイレン、そしてコーランのスピーカーが町中に響き、たった一日で「これがイスタンブールの騒音か」と身体にしみ入った。
 朝から寒さと歩き回った疲れが老体を襲った。そういえば食事をしてなかった。近くのレストランに入り、代表的トルコ料理のイスケンデルケバブ(羊肉のトマト煮込み)、ナスのケバブ、をビールで流し込んだ。2000円。こんなB級グルメの店はたいがい道路側のガラス窓の内側に出来上がった料理を並べ、食べたいものを指差して皿に盛ってもらうので分かりやすくていい。



<いつものドジ>
 夕方ホテルへ戻り、カードキーを差し込みドアを空けようとするが空かない。フロントに「このカードキーおかしいよ(ミステリアス)」と云うと「おかしいのはあなただ」と笑って云った。私はネットで一泊分しか予約してなかったのだ。だからドアの読取磁気は既に変更されていた。
「もう一泊プリーズ」。この一言で解決した。
 私のスケジュールに確定はない。だから明日の晩もここに泊まるかは分からない。だから余程込み合う時期でない限り、翌日の予約はしない。キャンセルしても良いのだが、いつも気持ちはフリーでいたいのだ。
 部屋に戻って持参したノートパソコンを空けた。このホテルは無線LANが使える。1時間接続に費やしたがつながらない。フロントへ電話したら「パソコンのスイッチが入ってなかったので今入れます」と。「アホ、いつも入れとけ!」とは云えず「プリーズ!」。
 つながったが、「感度非常に弱い」の表示。私のデザインオフィスの仕事関連のメールチェックと発信。そしてお遊びのサイト「mixi」や「ブログサイト」のチェック。
写真をアップしようと試みるが、何度やっても送れない。ネット回線速度が余りにも遅すぎる。私は皮肉ってこれを「オソマントルク回線」と名付けた。



<ジョークの好きなフロントマン>
 インターネットは中断して、夜の街へ出る事にした。
ベリーダンスだ。これを見なけりゃ来た甲斐がない。ガイドブックを持ってフロントへ。
「どこか近くで見れない?」と聞くと、笑って足下を指差した。どうもここのフロントマン達はジョークが好きだ。朝食の場所を尋るのに「おはよう!朝食何時から?どこだっけ?腹減った!」と聞くと「8階です。ゆっくり階段で上がればば丁度OPEN時間です」と笑顔で云った。そう云えば昨夜ホテルに着いた時、名前を2度も聞き返すので、私が「AZUMAです。意味は東から来た男」と適当に指差し余計な事を云ったら。「シルクロードで?」と返された。「もちろん!」と答えると、手を合わせ「ようこそ!」と笑って拝まれたのだ。
 このホテルの地下に観光客向けのショーレストランがあったのだ。「オリエントハウス」宿泊者割引、ディナー付き55ユーロ(¥8000)、貧乏旅行には高いが彼に予約を頼んだ。



 中へ入るともう既に満杯。私は一人ポツンとテーブルに座り、寂しくトルコディナーをつっついた。
 オスマントルコ期の踊りや儀式を見た後ベリーダンス。2人の美女が超神業腰振りテクニックを見せてくれた。
美貌、ウエストのくびれた悩ましいボディと衣装、もう釘付け。多分日本女性が見たら「私もやろうかな」と思うくらいセクシーで刺激的だった。
 客席は韓国客が一番多く、次にイギリスとドイツとフランスだった。各テーブルに国旗を立てるので分かる。日の丸席は私一人。期待して来たのに。「何を?」



<白く濁る酒:ラク>
 ショーが終わった24時、外にでて酒場を探した。トルコだから「ラクが飲みたい」と道行く人に尋ねた。教えられた店は、路地裏にある爺さんが一人の3坪ほどの汚い食堂だった。「メルハバ!」までは良かったが、英語が全く通じず、二人とも10分間、面と向かってただニコニコ、チビチビ、お互い時々独り言。このラク酒は45度、強い。水で割ると白く濁る。少し回った。そしてなんか疲れた。 
 部屋に戻って又インターネット。今度は写真も遅れた。こうして忙しくて刺激的な一日は夜中の3時に終わった。
明日は金角湾の向こう側「新市街」を探索しよう。


つづく

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