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2006年12月冬のイスタンブールひとり旅 店主:東 賢太郎(58歳)
その3

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イスタンブール4日目

 早々に朝食を済ませチェックアウト。タクシーで新市街のタクシム広場に近いレンタカー「AVIS」に向かった。
 朝の市街は「喧騒」の言葉そのもので、洪水のように渋滞した狭い道では他の車が先を争うように割り込んでくる。
 ガイドブックにあった住所に着いたが見当たらない。電話をすると場所が変わっていた。よくあることだ。
「コンパクトカーを3日間借りたい、それとカーナビも」、すると「予約無しですか、すぐに準備が〜困ったな〜」とスタッフ同士がトルコ語でヒソヒソ。そして「10分程で準備します」。
 しばらくしてオフィス前に届いた車は中型トルコ車。これ本当にレンタカーと思わせる程、洗車もされていない古めの車だった。しかたがない、一人旅だし、世界一荒っぽい運転の国だから、新車で気を使うよりいいかも。
 手のひらにスッポリ入る程の小さなカーナビをフロントガラスに貼付けて出発。まずは東のアジアサイドへ向かう。
イスタンブールはトルコの西端に位置し、街はボスフォラス海峡を隔てて、ヨーロッパサイドとアジアサイドに別れている。



 「あれ、オートマじゃなくてマニアル車だ」。それはいいとして、カーナビの操作の説明もなかったので手間どる。何とか設定して走り出したが妙な方向へ先導する。システムが不完全で、APSの衛星からの電波も十分キャッチ出来てないのだ。だが時間の制約もないし、観光のつもりで教える通りに走ろう。
 しかしなかなかアジアサイドへ渡る橋は見えず、袋小路に入った。Uターンしようとギアをバックに入れるが入らない。ギアの不良?「オイオイ勘弁して欲しいな、まだ街を出てもいないのに」。
 私は5年前にレンタルバイクでミラノを出発し200km程走った所で、荷物が詰まった後ろのハードケースが落下した。取り付けの軸が折れたのだ。しかたなく再度バイクショップへ戻った。お陰で一日無駄にした悪夢がある。 
 バックギアが入らずが困っていると中年の神士が声をかけ、私に変わってギアを操作した。「これやっぱり故障だよ、レッカー呼びなさい」
 AVISに電話した。すると「バックギアは特別な入れ方でね」と説明を始めた。確かに特殊だ。「バカものそんなの初めに説明しなよ」的な言葉で不満を伝えた。
 相当無駄な時間を費やし、やっと橋を渡り、高速道路の無人料金所に差しかかった。どのボタン押しても反応がなく金の投入口もない。「いいや行っちゃえ〜」通過直後大きなアラーム音がなった。「まずい、料金踏み倒し車になっちゃう」。
 車を路肩に止めて管理事務所に。ナンバーを告げて500円支払い終了。トルコの料金支払い方式はややこしい。その後もあったがアバウトで切り抜けた。違反があったかもしれな。



 高速道路では大小の長距離バスがカッ飛ばしていた。トルコの交通手段はバスが主流でバス会社はかなり多い。トラックも乗用車も車種は国際色豊かで通行量も多い。
制限時速は120km。しかし皆150kmを越え、前の車の後ろにピッタリと寄せて警笛とパッシングで蹴散らすように追い越して行く。「荒っぽい」なんてもんじゃない。だがすぐ慣れた自分も恐い。
 途中何度も休憩。サービスエリアと云っても小さな食堂やセルフレストランがあるくらいで、日本のそれとは程遠い。



 年輩のトラック運ちゃんの集まる食堂では、「こいつどこの野郎だ」の視線に囲まれる。しかし「メルハバ」の挨拶で皆すぐ笑顔に変わる。「雪が凄いけど大丈夫かな〜」と尋ねると「アマスラは遠いけど問題ないよ」と云って地図で教えてくれる。「カーナビではこっちのコースだけど」と指さすと「その道じゃ2日かかるよ」、田舎の一般道は雪でまともに走れない地域があると云う。大回りでもとにかく大きな道路だ。



 200kmの距離を残し高速道は終わっていた。雪はさらに激しくなり、一車線の一般道は大渋滞。1時間程で1kmも進まない。後ろのバスの運ちゃんに「Uターンして戻るよ」と告げると「もう少しだから辛抱しな」と云う。
 30分程で流れ出した。事故があったのだ。それにしても吹雪の中、だんだん車は少なくなり、ライトを消すと真っ暗な山道や平原を走るのは心細い。



 トルコの広さは日本の2倍ある。私は東京都から秋田の小さな漁村を目指したようなものだった。

 夜10時過ぎ、黒海の小さな漁村アマスラより70km程手前の「サフランボル」に到着。
 この街はオスマン帝国17〜19世紀の頃、黒海と内陸を結ぶ交易の街として大変栄え、木造の屋敷が沢山建てられた。しかし20世紀に入って急速に衰退し、街は発展の機会を逸しそのまま残った。
 現在も旧市街には昔の生活そのままの臭いを残し、近年世界遺産として登録されている。

 私はあきらめてこの街に泊まることにした。そこは町中が白い雪につつまれていた。さてホテルをどうしよう。暗くて全く検討もつかない。ぐるぐる30分回り、初めの小さな広場に戻った。

<パトカーのお世話になった>
 駐車していたパトカーに、「このホテル分かる?他のでもいいんだけど」とガイドブックを見せながら尋ねた。警官は「了解、案内しますよ。後ろに乗って下さい」と私をパトカーに乗せ、もう一人の警官が私の車を運転し7分程でホテルへ着いた。
 古くて小さいホテル、と云うより宿屋又は民宿だ。朝食付きで一泊3500円。25歳の可愛い若奥さんはしっかりした日本語を話した。昔日本人客が多い時期があり、勉強したそうだ。
 優しいご主人と、日本語を少し話す母上も親切でいいお宿だ。



 警官二人も一緒に居間でチャイを飲みながら、しばらくおしゃべり。「ここは木造の古い家屋が沢山残る歴史遺産の街だよ。今の季節はアマスラへ行っても何もないから、ここにゆっくりして行きなさい」と薦められた。
 都会と違い事件の少ない田舎のおまわりさんは、観光客のフォローも大切な仕事なのだろう。そのホスピタリティがとてもうれしく、いい街に来たな、と思った。



<日本語が話せる宿屋>
 宿屋は2階の中央が丸いフロアとなっており、その回りに部屋が3つ、3〜4のベットのあるドミトリーとなっている。築200年近い全て木造りの家で暖かみがあった。



<素直で可愛い地元の子供達>
 翌朝、食事前に散歩に出た。曲がりくねった小さな坂道の街を歩き始めたら、通学の子供達に出会った。「写真撮らせて」とカメラを向けると、「ちょっと待って!」と、皆で整列して写ってくれた。そして「見せて」とデジカメをのぞき、皆で奇声をあげながら立ち去って行った。
 その後も何組か撮影。同じように快く応じ、今度は歌を歌いながら立ち去った。どの子も可愛いくて、素直ないい子供達だ。



 近くの木の扉が空いて、男が中に入れと手招きした。覗いてみると5人で営む小さなパン工場だ。いい香りがする。大きなトルコパンをお釜で焼き、中央の大理石の台に並べ出荷の準備をしている。
 「日本人好きだよ。もっとこっちへ来たら、写真も撮りなよ」と歓迎だ。パンは一本50円程だったので、宿屋へのお土産に5本買った。



 早朝は氷点下だったかもしれない。1時間程の散歩で身体は冷えきった。帰り道小さな鍛冶屋があった。木の扉につける金具専門の店だ。外から「メルハバ」と声を掛けると中に入れと手招きした。炉の中は赤と黄色の炎がメラメラと燃えて、手をかざすと熱い。わずか5坪程の店だがもう200年以上続く鍛冶屋だそうだ。「ここの写真は皆撮って帰るから、世界中に俺の写真があるよ。あんたも撮りな」
と、多分そんなことをトルコ語で云っていたのだろう。
 この街はもともと職人さんの多い街で、この鍛冶屋は観光用ではなく、実際に生業として存続しているのだ。



 朝食は、年輩のトルコ男性、30代の韓国男性と私の3人。これで宿泊客全員だ。お互い言葉がもどかしく、余り会話もなく早々に切り上げた。

<日本人3人で観光>
 シーズンオフで観光客はほとんどいない時期だが、偶然にも三叉路で同時に日本人3人が出くわした。大阪の若者(上海〜インド〜イラン経由)、ドイツ駐在の日本人技術者、そして私。
 私の車で近隣を回る事になった。近くの宿の主人が案内をかって出て同乗した。10km程離れた所に200年以上前に建てられた木造家屋が集積する「ヨリュック村」がある。若者は全て大きな都市に移り住み、老人ばかりがひっそりと暮らす静かな村だ。昔のままのスタイルで暮らす2軒の家を中まで見学させてもらった。お礼のチップも生活の足しらしい。



 帰り道、サフランボル全体を見晴らせるフドゥルルックの丘に上がり、すり鉢状の地形の中央にあるモスクを取り囲むように広がる小さな家々を眺めた。数百年も冬の景色は変わっていないのだろう。



 夜、大阪の若者と二人でトルコ大衆浴場のハマムへ。そしてラク酒で一杯。宿屋に戻ってから私のパソコンにLANケーブルを引かせてもらいインターネット。こんな小さな村にいても日本と繋がり、コミュニケーションできる。



<年越しのお祭りの為>
 翌朝も早朝散歩にでた。山羊を20頭位、羊飼いが街中を移動させていた。中央の空き地に山羊が100頭位、牛が5頭集められていた。明日からの正月祭りのためのご馳走になると云う。

12/30、私はこの日の内にイスタンブールに戻らねばならない。そして翌日は帰国便に乗らねばならない。

 お世話になったおまわりさんに、お礼を言って帰ろうと、ポリスオフィスへ、二人は不在だったが、お礼の気持ちを署の人へ託して帰った。



 お土産でお店を巡ったり、チャイしたり、写真をとったり、どこでも「メルハバ」の一言で皆笑顔で歓迎してくれた。サフランボルは事件も陰湿ないじめもあるはずがない、と思うくらい暖かい町だった。

つづく

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