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2007年G.W.バイクひとり旅 4/29〜5/5 甲州街道〜中山道〜静岡茶畑の旅
店主:東 賢太郎(57歳)

 今年のゴールデンウイークも一人バイクで旅をした。昨年は能登半島一周で、先日地震災害のあった輪島にも宿泊し、地域の人々と一杯やった思い出が蘇える。
 4月29日、調布から入った中央高速道路は、富士五湖方面に分かれる大月ジャンクションを過ぎると車が少なくなった。快晴の青空の前方には、頂きにまだ雪の残る八ケ岳連峰、振り返ると白い富士山が大きく見えた。
 高速は韮崎で降り、20号線の木々に囲まれた自然のワインディングロードを、右に左にゆっくりカーブを切り鼻歌を歌って走った。途中の日帰り温泉につかり、河原で昼寝し、夕方蓼科高原にある友人の山荘についた。
 蓼科は周りに八ケ岳、白樺湖、霧ヶ峰のある、川崎からわずか2時間半の高原の避暑地だ。

<40年振りの思いで>
 今からちょうど40年前の夏休みのことである。
 当時私は県立新城高校3年生。受験勉強で山籠りしようと、霧ヶ峰高原にあった「ぴをれヒュッテ」に向かう為、一人新宿駅のホームにいた。
 売店の週刊誌「女性セブン」に「霧ヶ峰」と見出しがあった。パラパラめくると、見出しに「高原の山小屋を一人できりもりする、21歳の女主人を尋ねて、記者は中央本線に乗った」とあり、7ページに渡って紹介されていた。
私は「あれっ、今から行く山小屋じゃないか」と思いながら電車の中で読んだ。「電気はあるが、夜はランプを使い、水道はなく、毎日大きな牛乳タンクを背負って、片道10分の沢まで何度も往復する」と女主人の写真付きで書いてある。
 「冬のスキーシーズン以外は客がいないからゆっくり勉強できるよ」と云う友人の紹介だけで、何の情報も持たずカバンに参考書を詰め込んで霧ヶ峰に向かったのだ。しかしこの一冊の週刊誌で、状況は大きく一変した。連日女性客で満員となり、勉強どころではない。
炊事、洗濯、そうじ、夜はギターを弾いて皆と歌う毎日が、休む日もなく続いた。勉強のつもりが一夏のアルバイトに変わった。お客は東京を中心に関東全域からおしゃれな男女が連日押し寄せた。そして、知らない人同士もすぐに仲良く花畑や湖に散歩に出たり、夜は遅く迄一緒に語り、歌い、楽しいコミュニティーサロンと化した。

 当時21歳の女主人は、雪江さんという。その山小屋は、5年位で火事になり、その雪江さんは結婚して山を降りた。しかし、そのお客様達と雪江さんとの交流は長く続き、昨年蓼科に雪江さんが山荘を建てたのをきっかけに、昔の仲間達で集まろう、と云う企画で25人集まり、40年前と同じように語り歌ったのだ。
 当時女性セブンのその記事を書いた記者さんも参加した。「40年振りの同窓会を又記事に書きたいけど、もう紙面をもってないから」と残念がったが、とても満足そうだった。

<中山道の宿場>
 翌朝私は連泊する仲間を残して、ひとりバイクで旅立った。本来の予定は、塩尻か旧中山道を走り、名古屋に抜けて伊勢志摩、熊野古道、那智の滝、南紀白浜と紀伊半島一周だった。
 中山道(中仙道)は江戸時代に、江戸を起点とする5つの陸上交通路「五街道」のひとつとして整備され、他に東海道、奥州街道、日光街道、街道,、甲州街道がある。
慶長六年(1601年)に徳川家康が全国支配のために江戸と各地を結ぶ街道を整備し始め、四代将軍家綱の代になって基幹街道に定められた。
 整備として一里(4km)ごとに一里塚を設けたほか、一定間隔ごとに宿場を用意した。東海道の宿場は53次、中山道は京都まで69次の宿場があった。

 私はその日、奈良井宿、妻籠宿、馬籠宿に立ち寄り、中津川まで行って泊まった。それぞれ今でも江戸文化と観光の為に宿場の家並みは昔の風情を留め、街道の景色は緑の山々、田んぼと畑、遠くに見えるアルプスの頂きには白い雪が残り、川が流れ、小さな村や街を幾つも通り抜けて走った。過去に何度も走った街道だが、何度走っても飽きない。

<中津川のホテル>
 中津川の駅前付近で手ごろなビジネスホテルへ入った。すると「バイクで観光ですか、いいですね。それでしたら、部屋は空いてますが、ちょっと先の**ホテルさんの方が展望風呂があって部屋も内よりきれいですよ」そして料金も同じだと云う。
 「えっ、それでいいんですか?」、「せっかくの旅行で中津川に来てくれたんですから」と云う。親切すぎる。そのホテルは工事現場の人や出張の馴染み客でなんとか成り立っているようだった。紹介されたホテルは¥4000で朝食も付いていた。こんなことがあると、街の人全てが「いい人」に思える。

<塩尻のコインランドリー>
 翌朝、高速道路で一気に紀伊半島へ入る予定だったが、予報通り雨。バイクは雨が大敵。
 昨日来たコースを高速道路で塩尻まで戻った。そこから日本海に向かい、その晩は白馬に泊まることにした。カッパを着ていたが、全身、ブーツの中迄ビッショリ。コインランドリーで乾燥させることにした。靴の乾燥機まである。乾く間そこのベンチで昼寝した。
 熟睡して一時間程たった頃だった。携帯電話が鳴った。
いとこのご主人の急な訃報だった。まだ46歳。優しくてアクティブで優秀な人なのに、完治したはずの病気が再発したのか。翌日の通夜、そして告別式に参列せねばと思いながら又寝入った。

 「あれっ、私の頬や唇を誰かがナメている」夢を見ているのかとしばらくさせるままにした。薄目を明けると大きな犬だった。犬は大好きで私も好かれる。
 起き上がって撫でて抱き締め「お〜ありがとう、歓迎してくれたのか」と話していると、洗濯機をセットしている中年女性が「あ〜すいません」と一言云った。しばらくして女性は自販機でドリンクを買いながら「お茶、飲みますか?」と訪ねた。「あ〜すいません」とごちそうになった。私のバイクのナンバーを見たのだろう「川崎には弟家族がいるんですよ。ラゾーナて云うところの側で」と話しが始まった。30分程話して私は出発した。犬はしっぽを振り、女性が笑顔で手を振ってくれた。「いい街だな〜」。

<甲府での出来事>
 葬式の為に川崎に帰る前に甲府へ寄ろう。親しい化粧品屋さんがある。全国に名前が轟く質の高い専門店で、まだ50歳のその店主とは月に1回東京での某研究会で会う。商売への価値観が同じだ。彼はトランペットを吹き、音楽と云う趣味も共通で話しが楽しい。
 市内に宿を取り、夜一杯やった。化粧品業界は価格破壊で、ここ5年で全国の化粧品店の多くが廃業し、ドラッグストアもその競争で廃業か、吸収合併を繰り返している。
 そのお店と私の店は高品質の高級ブランドが中心で、一定エリアの中で独占させてもらっていることもあるが、経営は安定している。しかし、技術やサービスの質を確保するコストは上がる一方で決して安閑としていられない。
 静かなバーのカウンターにもう一組客がいた。イタリア語と英語が聞こえてる。若いイタリア男性と二人の日本人。私は「ボンジョルノ!」と声をかけた。海外でもこの「コンニチハ」さえ知っていれば、すぐに親しくなれる。「ボンジョ〜ルノ〜、シニョール」と返った。ナポリのカメオ職人で、市内のデパート「おかじま」でイタリアフェアがあり、カメオを彫る実演での来日だった。
 「2002年夏のバイク旅行で、シチリアからフェリーでナポリに入ったよ、海から眺める早朝のベスビオ火山の稜線がきれいだったな〜」と話すと彼が身を乗り出して云った。「そうだろう、美しい街だよ。火山の麓のソレント近くに、トーレ・デル・グレコと云う村があって、そこで我々カメオ職人は彫っているのさ」と、盛り上がった。私が、ボビーソロが唄い大ヒットしたカンツオーネ「ほほにかかる涙」を歌うと、彼も一緒に歌った。

<カメオの話>
 翌朝私は彼の実演会場に出向き見学し、販売責任者の日本人男性にカメオについてレクチャーを受けた。

 カメオとはラテン語で「浮き彫り」という意味で、古代は男性のお守り的存在だったが、中世の頃より女性の高級アクセサリーとして人気が高まった。そのころからめのうの原石が足りず、イタリアで貝を利用して彫られるようになり今に至っている。シェルカメオの始まり。今ではトーレ・デル・グレコ村に500人の職人が住み、世界のカメオは全てそこで作られている。
 そんな話しを聞き「家内にお土産として一つ、この1万8千円のを頂こうかな」直径4cm程の繊細に美しく彫られた逸品だった。すると「あの〜これは18万円なんです」ガクッ、桁を間違えた。「そうか〜、そうだろうね〜、僕の小遣いじゃちょっと無理だ〜」
 会場を後にして、バイクに戻ると若い男の子が触っていた。「いいですね、この色のドラッグスター」「いいだろ〜、旅には最高だよ」などとバイク談義。いつもどこでもこんな感じだ。

< 土日祭日も休みなしで仕事 >
 旅の話を連載しているからだろうか、年中旅をしているように思われる事がある。私は年に3回、GWと夏休み、そして年末に一人で旅に出る。それ以外は店や事務所で土日祭日も休みなしで仕事する。3階のオフィスではIT関連ビジネスでパソコンに向かい。その合間に化粧品店でもスタッフやメーカーとの打ち合わせだ。
「俺は働き者だ〜〜!だから年3回は自由気ままな旅をさせてくれ〜!」とスタッフに云う。(笑)家族もスタッフも「HEADの旅は病気だからしかたないね。たまにいない方が楽だしね」と暖かい?言葉で送り出してくれる。

 旅先に届いた親類の訃報で一旦自宅に戻った私は、すぐに着替えて江東区の斎場に向かった。亡くなったのは私のいとこのご主人でまだ47才。17と21才の娘を残して突然の病死だった。私も娘2人だが、すでに20代後半。もう大人だが、先立つ父親の無念さは想像できる。通夜の時、気丈に振る舞う母を支えるように、参列者に挨拶して回る若い娘2人も、夜遅く静かになった斎場の父の遺影の前で肩を震わせて泣いていた。真面目で優秀で、優しい優しい男だった。

 2002年8月、私はイタリアを一人でバイク旅行をしていた。ベネチアの少し下に位置する「ラベンナ」に行った時である。私はその時の出来事を思い出した。

< モザイクの街ラヴェンナの回想 >
 この静かな地方都市ラヴェンナはその昔、西ローマ帝国の首都であり、東ローマ帝国の時代にも総督府がおかれた政治の重要な拠点であった。その5〜6世紀頃に残された煌めくばかりのモザイク芸術が世界遺産として西洋美術愛好家の聖地となっている。
 そのひとつ、八角形のネオン洗礼堂の天井のモザイク「キリストの洗礼」を椅子に座って眺めていた。
直径10m程の室内は壁際に沿ってベンチがある。
 皆そこへ座り天井のモザイクを鑑賞する。私が座ったちょうど向かい側に東洋人の夫婦らしき二人が座っていた。二人は天井を見上げるのではなくじっと下を向き、婦人が辛そうな表情の男性を覗き込むようにして何かひそひそ話している。
 この暑さの中を歩き回り体調をくずしたのだろう。婦人がふと顔を上げこちらを見た。目が合って薄暗い洗礼堂の中でお互いしばらくじっと相手を見つめた。私は軽く会釈をした。婦人も丁寧に会釈を返した。そして隣の男性の膝に手をやり私の存在を知らせた。
 皇后の美智子様のようなおだやかな表情と、細く優しい目を見てその婦人は日本人とすぐ分かった。 しばらくして私達は外に出て話を始めた。やはり日本からのご夫婦で年齢は60歳位だった。婦人の横で挨拶程度で何も話さなかった男性は、ジーパンにTシャツでヘルメットをもった私の年齢を知ってから少しずつ話しに加わった。
 曇りがちの空に救われて私達はゆっくり歩きながらお互いの家族の話をした。御夫婦は昔学生だった長女を事故で亡くし、そして今年の6月にもう一人の31歳の娘さんを病気で亡くされたそうだ。
 49日が終わリ、御主人は会社をやめた。二人は娘さんが病気入院中「私が退院したら3人で旅行しようね」と自ら組んでいたイタリア9日間のコースを今その通りに回っているそうだ。
 「お嬢様達は成人されて、東さんはお幸せですね」と優しく云う婦人の言葉に、私は「はい」とは云えず「いえ」とも答えきれず、心の中は何も声にならなかった。
 まださ程老いてもいない彼等が、この巡礼の旅を通してそのやりきれない気持ちをどのように整理して帰るのかとても気掛かりだった。
 その夜はもう街に出る気持ちになれず、ベットで赤いワインを1本空けて眠った。

< 静岡、茶畑ツーリング >
 通夜そして告別式と久々親族達と長い時間を過し、血縁の大切さを実感した。
 翌日、自分のラジオ番組の生放送で「中山道バイクの旅」を話し、又翌日残り2日間の旅へ再出発。行き先は静岡の茶畑だった。

 4月に店の3階にあるオフィスで、日本茶セミナーを開いた。お茶問屋の専門家による講座は大変好評で、八十八夜の茶摘みの話しを聞いた私はバイクでその茶畑を走りたいと思っていたのだ。渋滞の激しい東名高速も時速60kmでバイクはすり抜けられる。
 御殿場で父の眠る墓に参り、快晴の富士山や太平洋を眺めながら静岡の茶畑に入った。

 金谷、牧ノ原台地は茶の新芽が出そろい、見渡す限りこんもりとした蒲鉾型の茶木が整然と並んでいた。ところどころで機械による茶摘みが行われ、その人々の顔は実に晴れ晴れと幸せ顔だった。セミナーの講師で来て頂いた川崎のお茶問屋(店で小売りも)「つな川」さんは、毎年この時期直接買い付けにくるそうだ。今は電話やFAXやメールで注文を済ます業者の多い中だが「茶摘み時期に、直接買い付けに行って、一緒に喜びを分かち合うと特別に良いお茶を回してくれますから」と店長の小澤さんが話していた。

 この茶畑ツーリングでは、焼津市で化粧品屋を営む40代のライダーと合流し一緒に走った。「僕らは、友達の家が何かしらお茶に関わる仕事をしてるから、しょっちゅう来ますよ。茶摘みのアルバイトはラグビー部員でも音をあげる程大変でね。」と解説付きのツーリングだ。
茶畑の中に「お茶博物館」があり、世界のお茶や歴史、製造工程も知ることができる。
 館内のレストランで彼からさらに詳しい講釈を受け、すっかりお茶博士になった気分の私は「来年もくるから、茶園を紹介してよ。2日くらい茶摘みを手伝いたいな」すると「無理無理、半日持たないよ。バイト学生が夜逃げするくらいきついんだから」と。

 茶畑の頂上で、二人は分かれ私は掛川方面に下った。こんな天気の良い5月の静岡はどこを走っても至福走行だ。御前崎から焼津に向かう途中に3月に店の旅行で行った静波海岸がある。砂浜に寝ころんで波の音を聞いていたら寝てしまった。2時間くらいして人の声に目が覚めると、三人組の女性が目の前を横切った。「こんちは〜!」
と声をかけた。「こんにちは!」と返事が返り、一人が立ち止まり「バイクですか?」と聞いた。「そう、今日は茶畑を走ってきたんですよ」。すると「え〜いいな〜、私もバイク乗るんですよ」と話しが始まった。しばらくしてあとの二人も戻って話しに加わった。
 岐阜の看護婦さん達だ。私の国内、海外のバイク旅行の話しを楽しそうに聞いてくれた。人気の少ない初夏の砂浜に座わりこみ、それぞれの旅の体験話は大いに盛り上がった。

 その晩は伊豆近辺まで戻り、海岸の近い小さな旅館に泊まり、翌朝小田原、江ノ島、鎌倉を巡って川崎に帰った。毎度ひとり気ままなツーリングは、私の心をリフレッシュさせてくれる。

おわり



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