#02 2002年夏 イタリア一周バイク一人旅
ヴェローナとヴェネツィア

 

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 7月19日、スタート初日の荷台落下のトラブルで 一旦ミラノに引き返し、再スタートしたのは夕方の5時を過ぎであった。夏のイタリアは夜の9時迄明るい。4時間もあれば500kmの移動も可能だが、その夜の宿泊は東へ150km離れた「ヴェローナ」に決めた。ヴェローナは シェイクスピアの悲劇「ロメオとジュリエット」の 舞台となった町で、中世の面 影をそのまま残した美しい町だ。トラブルによるつまらない時間のロスで少しいらだった気分もトスカーナの緑の平原を走る間にすっかり吹き飛んだ。

 


北部 トスカーナの丘陵地帯

 バイクは単なる移動手段ではなく、目的地を目指して走ることそのものに楽しさがある。酸素と緑の香りタップリの自然の空気の中を、風を切り、風にのり、そして風になって丘を越え、橋を渡り、緩やかなカーブはバイクを少し倒して半円を描き、長い直線は一気にアクセルを開いて時を駆ける。そこは正に自分ひとりだけの全く自由な世界だ。前方に次々と広がる景色を楽しみ、すれ違う人や車には手を上げてその幸せな気分を伝え、自分と一体となって地を駆ける優秀なバイクに「お前は偉い」とその性能を讃える。そして最後に「こんな旅ができる俺はなんて幸せなんだ」と自己満足に浸ることを私は忘れない。
  年に一度か二度しかない私のバイクツーリングはいつもこんな調子だ。



< ロメオとジュリエット」の舞台となった「ヴェローナ」>

 北イタリアの美しい芸術都市ヴェローナに到着したのは午後7時ごろだった。
私はホテル探しを兼ねて町の隅々までバイクで散策して回った。ヴェローナは川幅100m位 のアディジェ川がU字に蛇行するその内側に位置しており、町の中央には世界でも屈指といわれる古代ローマ時代の円形闘技場がほぼ原形を留め、夏の間ここでは毎夜オペラが公演されている。
 探していた予算5000円のシングルベットは、そろそろ陽が暮れだした9時頃に円形闘技場のあるブラ広場でパントマイムをしていた若い大道芸人が見つけてくれた。私がおごってあげた一杯のビールのお礼のつもりでもないだろうが、数件のホテルへ自分の携帯で電話してくれたのだ。そのホテルはフロントがとても親切でなかなかきれいな部屋だった。と云うかこの街の人々は皆気さくで親切だった。
「ヴェローナ グラッツェ」。




ベローナの円形劇場:ヴェルディーの「アイーダ」の舞台作り中

 翌日、まず「ジュリエットの家」を訪れた。この物語は1300年頃の話で、当時のイタリアはまだ現在のように国が統一されておらず、クローネと云う都市国家としての存在が強い時代だった。そしてその都市の中でも力のある者同士の権力争いが続き、実在した教皇派のモンタギュー家(ロメオ)と皇帝派のキャピロット家(ジュリエット)の争いがこの悲劇の題材となっている。
 物語に登場したジュリエッタの家のバルコニーが観光客の人気を呼んでいた。しかし訪ねてみると、10坪程の小さな中庭になんの変哲もないバルコニーがあるだけで「えっ、これだけ」。もちろん日本も「何々のゆかりの地」はそんなもんだ。その背景にあるストーリーを想像すればよいのだ。
 円形闘技場(アレーナ)訪れると、次の公演、ヴェルディーの「アイーダ」の舞台作りをしていた。25000人も収容できると云うそのアレーナが2000年も前に造られたとは全く信じがたい驚きの事実だ。夏の夜の大スペクタクルと云われるそのアレーナのオペラに後ろ髪を引かれながら私はさらに東へ130kmの水の都ヴェネツイアへ向かった。


<賑やかなヴェネツィアの夜>

 5世紀頃から始まったゲルマン民族の度重なる侵略で、アドレア海沿いの人々は土地を追われ近くの小さな島々へ逃げのびた。しかし増え続ける難民で島から溢れた人々は周辺の浅瀬(ラグーナ)に木の杭を打ち込み、さらに石やレンガを積んで干拓し、住む土地を増やしていった。それが今のヴェネチアだった。
 120程の島を400位の橋で結び、彼等は海水から塩を生産し富を得て次第に力を貯えていった。そして船で大海へ出て東方から絹織物や香料、宝石等を運び中東や地中海諸国との交易を広げ、海洋国家として繁栄することとなった。
 本土からヴェネツィアへは3000m程の橋を渡って入る。渡り切ったところに、
鉄道駅と駐車場があり、陸の乗り物は全てそこまでであとは全て徒歩と船での移動だ。ヴェネツィアに渡る橋の入り口にホテル紹介所がありたくさんの人々が並んでいた。私はよほど困らない限りホテル案内所には頼らない。いつも一軒づつ訪ねて回る。すると土地の様子や人々の感情が分かり、そして大概なんとかなる。もしなければ隣の町に行けばいいのだし、と一人旅は気楽でいい。





 ヴェネツィアに入ったのはまだ明るい午後8時頃だった。駐車場にバイクを置き 幾つもの橋を渡り、迷路のような細い道を歩き、大鐘楼がある広いサンマルコ広場に行き着いた。そこはヴェネツィアの海の玄関口でもある。
 バカンスとはいえ余りの混雑ぶりに驚いた。まるで夏休みの原宿の様で広場は人をかき分けて歩く程だった。目の前の海にはゴンドラやヨット、クルーザーがひしめき合い、船上ではこちら迄響くような大きなボリュームで音楽を流し、人々は奇声をあげながら踊り狂っている。
  どうなってんだこれは。すれ違う日本女性に話し掛けた「何でこんなに騒いでいるの?」すると「?????」韓国人だった。デジカメを持った日本人カップルに話し掛けた。「すごい人ですね」すると悔しい程完璧な撥音で「エックスキューズミー」と聞き返された。チャイニーズだった。帰国する迄にイタリアですれ違った東洋人の国籍を思い返すと韓国人が一番多く、次ぎに日本人であった。韓国は多分今海外旅行ブームなんだろう。
 良く考えるとその日は土曜日であった。だからこんなに人が溢れているのか。何の約束もない旅をしていると、日にちや曜日が曖昧になってくる。それでも旅ができてしまう程私の旅はいつも気楽なもんだ。

 中学生の頃から始まった私の旅好きは何時も突然で、夜中に勉強をしながら何げに地図を眺め、その朝には母に「ちょっと長野まで」「ちょっと北海道迄行ってくる」とこの調子だった。実は浪人中も予備校がありながら7月から8月にかけて
2ヶ月間北海道をヒッチハイクで旅をした。獣医を目指していた私が急に北海道の獣医に会ってみたくなったからだ。
 自宅を出る時の所持金は母から渡された小使い2000円だけ。剣道の竹刀に米や薄い毛布を詰め込んだ布袋をさげて歩いた。行く先々で日銭を稼ぎながらで、日立の農家で二日間、函館の魚屋で三日、サッポロのビール工場では貨車への積み降ろしを十日間、すすき野のキャバレーのチラシ配りを三日間、そして日高の静内の牧場で一週間、とほとんどその土地の善意な人々の紹介で日銭を得ながら旅をしたのだ。ちなみに当時利用したユースホステルは2食付で650円の時代だった。
 その頃から「人生捨てたもんじゃない」等と、まだ苦労も知らない若造は恐いもの知らずになった。それよりも知らぬ土地で知らぬ人々と触れあう幸福感に味をしめてしまったのだ。実は私は人一倍寂しがりやで常に人恋しい。だからいつもひとりで旅にでてる。




ヴェネツィア

 私にはすでに成人した二人の娘がいる。彼女達が大きくなるまでは毎年家族旅行もしていた。だからと云う訳でもないだろうが私のひとり旅に家族は「元気の源」と好意的だ。と勝手に解釈している困った親父でもある。
 私は娘達から「尊敬できる父親」になりたいと思っていない。勿論そんな要素は
少ないし、それより窮屈だし。私は「愛すべき私の親父」的存在でありたい。といつまでも甘ったれた心の持ち主でまある。

 旅から帰ってしばらくすると又地図に手が伸びる。地図の道を指でなぞるともう新しいドラマが頭をよぎり旅支度が始まる。今回のイタリアバイク旅行を決めたのは出発のちょうど1ヶ月前だった。昨年バイクでスペインを旅して、又いつかヨーロッパをと思っていたのだが、友人のステンドグラス作家からロマン漂うイタリアの歴史や芸術の話を聞かされ、その翌日には家内を説得していた。
 自営業の私にはには土曜も日曜もない。朝から晩迄必死に働く。その分春と夏には無理して休みを作り出す。「人生は楽しむ為にある」をモットーにいつ病魔が襲おうと、いつ商売に失敗しようと悔いのないように楽しめる時に楽しんでおくのである。ひとつ夢が叶うともう次の夢が頭に浮かぶ。私はその夢をすぐに人に話す。
54歳にもなりながら「不言実行」と云う大人の世界はきらいで、「有言失敗、時々成功」くらいが好きだ。友人と素直に夢を語り、そして聞き、それを膨らませて実行し、又後で振り返る。失敗は実のある経験となり次の夢の糧となるのだから恥じることはない。などと自分は密かに確信している。


 夜のヴェネツィアをひとり歩き疲れて運河の橋の階段に座り込んでいたら、目の前をさっき日本人と間違えて声を掛けた韓国女性が通 った。私はすかさず韓国映画「シュリ」を見て覚えたただひとつの韓国語「アンニョン:やあ」と声を掛けた。彼女は驚いたように立ち止まり不思議そうに私の顔を見た。私は「ごめん、僕はそれしか知らないんだ」と日本語で云った。結局お互いの国の言葉が分からず、片言の英語で話しが進み近くのカフェに入った。
 韓国の音楽大学を卒業後オペラに憧れローマに短期留学中とのことだ。そして今5日間の予定で北イタリアを一人で旅している。とてもしっかりしてプライドも高い彼女はローマ滞在中、サッカーワールドカップの韓国対イタリア戦での審判不正疑惑問題を話題にだされ嫌な思いをさせられた、と云って涙ぐんだ。私が日本人としてイタリア人から受けた好意とは正反対の経験をしたのだ。心細い単身留学の最中に可哀想なことだ。私は韓国サポーター達の応援「テーハンミングック(大韓民国)チャチャッチャチャッチャ」を真似て見せた。即笑顔の戻った彼女と冷たく美味しいビーノビアンコ(白ワイン)で何盃も乾杯した。

 その時店の外から大きな花火の音が聞こえてきた。その音はどんどん数が増し大きくなった。「そうか今日は花火大会か」だからあんなにたくさんの人が出ているんだ。しかし花火が始まったのは夜中の12時である。何と云う国だ。我々も飛び出してサンマルコ広場の方へ向かった。途中の運河でゴンドラのおにいちゃんに声を掛けられた。「安くするから乗らないか」その言葉に乗ることにし、相当値切り倒した。「でもおい、少し酔ってないか?」気にはなったが「こんな祭りの夜だからいいか」と乗り込んだ。賑やかで楽しいこの男はすれ違う船や人々に向かって何度も「フランチェスカ〜」と呼び掛ける。愛しい彼女の名前なのだろうか。
 運河から海に出てからもゴンドラはどんどん他の船やクルーザーをかき分けて
一隻だけ前へ出てしまった。誰もとがめる者はいない。そこは打ち上げた花火の真下にあたる。パラパラと花火の焼けた破片がどんどん落ちてくる。始め男の調子に合わせて陽気に騒いでいた彼女も恐くなってべそをかきはじめた。私は「ペリーコロ:危険」と何度も大きな声で叫び引き返させた。よく考えると我々もワインで酔っていたのだろう。私は気を引き締め直し、彼女をホテル迄送り届けて別 れた。 しかしそのゴンドラは他にもいろいろなハプニングをもたらし、夏の夜のヴェネツィアを存分に楽しむことができた。昔見たヴェネツィアを舞台にしたアメリカ映画、キャサリン・ヘップバーンの「旅情」を思い出させるこの一夜のドラマは、艶っぽいクライマックスを迎えることもなく静かに幕を下ろした。しかし今迄韓国との接点が何もなかった私の心の中に、もっと隣国韓国を知りたい、と思う気持ちが確実に芽生え始めてきたのは確かだ。

 彼女をホテルへ送り届けた後、私はその夜の自分の宿を探しに再びバイクを走らせ、混雑したヴェネツィアを後にした。その時の時間はすでに午前2時を回っていた。

つづく


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