#04 2002年夏 イタリア一周バイク一人旅
南部の港町バーリ

 

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< 南部の娼婦との出会い >

地図では地中海に長靴を横に浮かべた形のイタリア半島。そのふくらはぎ辺りに
位置するサンマリーノ共和国を後にして私はさらに南下した。景色の見えにくい高速道路を避け州道で街を離れると、建物は消え低い丘陵に挟まれた平原地帯が続いた。緑の多い北のトスカーナと違い、そこは強烈な夏の太陽に負けて枯れ始めた草木が、乾いた土と石ころの間に延点々としていた。すれ違う車も少なく、これから走る南部はこんな感じなのかと少し落胆した。
 しばらく走ると前方の木陰にカラフルなビーチパラソルが立ち、その下にタンクトップとミニスカートの女性が足を組み椅子に腰掛けているのが見えた。近付くと大きなサングラスをした黒人女性だ。そこは見る限り人気も何も無い原野の中を走る道路の脇である。
 私は即「娼婦だ」、と直感した。少しスピードを緩め、恐る恐る右手をあげて
「チャオ!」と云って通過した。女はけだるそうな表情で軽く手をあげて私をやり過ごした。足下に赤いバッグを置き手にミネラルウォーターのボトルと携帯電話を持っていた。「こんな所で商売しているのか」、私は関わる気持ちはなかったが、
取材してみたい興味を覚えながらもそのまま走り抜けた。

 さらに10分程走ったところに鉄道の踏み切りがあった。その脇にブロックを積み上げて作られた古く壊れかけの二階家があった。線路を越えてその家の前に差し掛かると、短く薄いキャミソールの黒人女性がいて私に手を上げた。「おっ、どうしよう」
私は少し通り越してからバイクを止め振り返った。女はスタスタとサンダルを
鳴らし側に来て何か云った。誘っているのだ。私は「参考までに」
とは云わなかったが、「クアント:いくら」と聞いた。女はちらっと私の風体を見て「30ユーロ:¥3600」と以外と優し気な笑顔で云った。私はひと呼吸おいてから首を横に振り「ノ」と答えた。すると女は一瞬にして顔色が変わり、私の足下にツバを吐きつけてきびすをかえした。「オーッ、おっかな〜い」私もそくさくとバイクを走らせその場を去った。女は私と同じくらいの背が有り、腕は私より太かったかもしれない。
 走りながらどうも後味が悪かった。初めからその気はないくせにからかった形となり、私は彼女の人としてのプライドを傷付けてしまったのだ。イタリアでは人種の違いで仕事はかなり限定され、まともな仕事は少ないはずの黒人女性だ。彼女達にとっては生きる為の手段か、もしくはマフィアに管理された選択のできない唯一の仕事かも知れない。それはまだ太陽がギラギラと眩しい真昼の出来事だった。
 私はバイクを走らせながら、昔「ジ・アニマルズ」が娼婦の館を唄った「朝日の当たる家」を思い出して口ずさんだ。その後もそのての娼婦には、南部の数カ所で遭遇した。これらはアフリカや中東各地から来ている出稼ぎ労働者の為の性のはけ口として、必要悪とされているようだ。それが性犯罪の予防にもなっているのだろう。その代わり街中ではなく、「人里離れた辺鄙な場所」と云う条件の元に黙認されているのである。全てが黒人女性で、版で押したようにパラソルとディレクターズチェアだった。私はその度に大きく手を振り声を掛けて通過した。「チャ〜!」


< 米国アウトレット巡り >

 見る程の景色もないマカロニウエスタンの荒野を走りながら、さっきの「街から遠く離れた場所と云う条件」の話しで、あることを思い出した。6年前の春休みに当時18歳だった長女と二人でアメリカを2週間旅をした。目的は当時日本でも話題を集めていたアウトレットモールを本場アメリカに視察する為だ。飛行機で5都市を周り、現地では全てレンタカーで行動した。娘の参加は突然だった。出発の3日前、航空券を買う日に「私も行きたい」と言い出したのだ。当時会話の少なかった父と娘の長旅がどうなるもんか、全米ツアーはその二大テーマで進行した。
  各地のアウトレットはそれぞれの都市からとんでもなく遠い場所にあった。近くても30km、遠いところでは 100km以上もざらだ。例えばニューヨーク郊外にあるアウトレット「ウッドベリーコモン」はマンハッタンから車で一時間半もかかり、周りに全く何もない所にある。その理由は、工場生産でのキズや汚れ、そして過剰品などを激安で販売するアウトレットに対して、通常価格でノーマルな営業をする小売業者を守る為に、各州が条例で「アウトレットは街から遠く離れたところへ」と条件をつけたからだ。
 お陰でロスやニューヨークなどの街をゆっくり見たい娘の意に反し、私達は毎日何もない辺鄙な所ばかりドライブするはめとなった。私と娘の似合わぬカップルは当然喧嘩の毎日で旅はそこそこ波瀾に満ちたものとなった。しかしその思い出は二人だけのものとして心に残り、今では暗黙の信頼関係となって仲良くやっている。

 現在の日本のアウトレットはアメリカで発祥した本来のアウトレットと主旨の異なる商品や売り方がなされている。そして既にそのブームも過ぎ、売り上げはどこも低迷し、1993年日本でアウトレット第1号となった埼玉県大井町の「アウトレットモール・リズム」は現在会社更生法の渦中にある。


< バイクで海外旅行はもうやめた >

 距離を稼ぐ為に長時間バイクを運転しているといろいろなことを考える。暑さに少しボーッとしながら120km のスピードで緩やかなカーブに入った。しかし減速が遅れて曲がり切れず道路から飛び出してしまった。幸い何もない平坦な地形だったので転倒することもなくコースアウトしただけですんだ。しかし一瞬頭が真っ白になり、停車するまでの約十秒の間に家族や店のこと、そしてなぜか8年前に他界した親父の葬式のことが一気に頭の中を巡った。私は一旦エンジンを切り早打ちしている胸の鼓動が治まるもを待った。騒音や風の音もない無気味な時間と空間を感じた。
 ポケットから携帯電話を出し自宅にかけた。多分夜の9時頃だろう、留守電で誰もいなかった。「今アドレア海の海岸、暑い、腹減った。以上」と吹き込んで再び走り出した。私は「バイクで海外一人旅はもうやめよう」と思った。一瞬で死ぬ ことができれば良いのだが、と云うのは「いつ死んでも悔いのないように」と云う自分の信条を実践しているつもりであり、保険も十分入っている。そして泣いてくれる人もそこそこいるはずだから、と云う半分身勝手さと、もし死ねずに大怪我だと家族や多くの人々に迷惑をかけてしまうことになる。だから「バイクで海外はやめよう」と思った。しかしこうして旅行記を書きながらも傍らに、先日買ったフランスとカナダのガイドブックを置いている。そんな節操のない旅人の性はほんとに死ななきゃ治らないだろう。じつはそこが又自分らしくて好きだ。


< おしゃべりが生き甲斐のイタリア人 >

 南部アドレア海沿岸は海岸の美しさ以外さ程見るものはない。私は途中から高速道路に入り一気にバーリを目指した。プーリア州の首都バーリはイタリア半島のちょうどアキレス腱のあたりに位 置する。そしてその町は私の旅の忌わしいアキレス腱にもなった。
 ギリシャとイタリアを結ぶフェリーの港街バーリは、ローマやミラノから空路で
南部へ入る玄関口でもある。住居や教会、そして役所などが集中する旧市街は、新旧の港が近く大変賑わっていた。石造りの古い住宅街は細い路地に長家が連なり迷路のようで、私は何度も方向を間違えた。
 夜になると皆風通しの悪い暑い部屋から外へ涼みに出る。老人は自宅前に椅子や縁台を出して座り、ただ道行く人々を眺めてる。家族や近所同士は連れ立って近くの海岸の堤防沿いに集まる。1km 程のコンクリートの堤防にずらっと人が集まりそのグループ毎にワイワイとおしゃべりをしている。恋人同士は、その昔海からの侵略に備えて造った長い砦の散歩道を腕を絡ませて歩き、抱擁し、愛を語りあう。
そして他の人々は広場や通りのバールやカフェに集まりピザやワインを片手に尽きることのないおしゃべりで盛り上がる。
 彼等はどんな人付き合いでどんな話をしているのだろうか。後日ローマで知り合った日本人留学生に聞くと「何でも気さくにはっきり云うし、こちらの話もしっかり聞いてくれる。腹の中で何を考えているのか分からない日本人よりも好きです」と言い放った。その気持ち同感。日本では美徳と云う表現で、遠慮、謙遜、沈黙が求められる。したがって目立つことは出過ぎとなり、正直な行動は生意気ととられることがある。だから私は54歳にもなるが どうも大人の付き合い方が性にあわない。そう云いながらそうしている自分があり、それに反骨し特異な目で見られることもしばしばある。これからもかけひきのない、素直な人付き合いを心掛けて行きたいとイタリア人のおしゃべり好きを見てそう思った。


ホテルのヨーロピアン朝食はパン、コーヒー、ヨーグルト。

< 語るのも恥ずかしい悪夢の物語り >

 私も仲間に入れてと海岸通りの堤防に腰掛け家族連れの人達と話をした。皆気さくで明るい。しかし悪餓鬼どもが私のポケットに手を入れたり、小銭をせびったりしてうるさかった。帰り際一人のおばさんにバックを手に持つのは止めなさいと諭され、周りの人々にも「そうだそうだ」と念を押された。この忠告の意味を十分理解しているつもりであったが、それはやはり「つもり」どまりだった。バールやカフェをはしごしてワインとビールですっかりいい気分でホテルに帰る途中、ついうっかりウエストバックを腰からはずしてしまった。手に持って30歩も歩かない
内に後ろから来た二人乗りのバイクがそのバックをひったくった。それはバックを持っていた私の手の爪が割れる程の手荒さだった。その瞬間私の頭は盗まれたウエストバックの中身を総チェックしていた。小型カメラと未使用フィルム2本、デジタルカメラとそのメデイア2枚、ガイドブックとノート。使用フィルム数本は他のバックだが、大半はデジカメで撮っていた。それまでの旅の記録は瞬時に全てすっ飛んだ。
 何も叫ばず、追うこともしない私が不思議だったのか、そのバイクが 止まってこちらを見た。私は「動くな〜」と大きな声で威嚇しながら走り寄った。しかし又走り出したバイクにかなう訳はない。
 近くで見ていたレストランの人々が出てきて私を椅子に座らせ白ワインを前に置いた。そして皆が周りを囲んで盛んに気を使った。警察も呼んでくれ説明もしてくれた。警官が書類を書きながら「若い奴らのいたずらなんです。申し訳ないね」と云った。事務的かと思っていた警官の意外な言葉に私は「もういいんです。皆ががこんなに親切にしてくれるし、イタリアがもっと好きになりました」と笑顔で云いながら心の中では悔しさが増してくるのを覚えた。 

 翌朝「微妙〜」なバーリを発ちサッカーの中村俊輔の移籍先レッジーナの本拠地「レッジョ・カラブリア」に向かった。レッジョはイタリア半島の親指のあたりにあり、シチリア島へはフェリーでわずか90分の距離である。 そのレッジョでは
「苦あれば楽あり」の幸せな気分を味合わせてもらった。

つづく


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