#06

2002年夏 イタリア一周バイク一人旅
シチリア島〜ナポリ

 

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 イタリアには現在36の世界遺産があり、それらはシチリア島を含むイタリア全土に散らばっている。大聖堂であり、遺跡であり、海岸であり、歴史の街そのものであり、そのさまざまな世界遺産の存在がイタリアの歴史と伝統の深さを物語っている。ひとつの大聖堂の建設に200年から500年もかける。何代にも渡ってたくさんの建築家が、職人がその建設を引き継ぎ、その時代の最高の技術を持って造り続けた。その間に幾たびの戦争や侵略、それによる建築様式の変更もあり、その建設そのものにも深い歴史が存在する。特にルネッサンスの時代には大きな富を得ていた貴族や商人、そして教会等が競って建築物や芸術に莫大な巨費を投じた。その為その時代に作られものと同等のものは、もう今日では製作不可能だろうと云われる程だ。私が25年程前ファッション業界に在籍していた当時に読んだ本に、アメリカの高級デパート「ニーマンマーカス」の社長でスタンレー・マーカスの書いた「我が心のファションビジネス」がある。この本に書かれていた次の言葉が思い出された「ルネッサンスの時代に技術の粋を集め限り無い巨費と時間をかけて作られたものこそ本物のエレガントと形容される」。イタリアは今も日本女性にとってのファッショントレンドの発信地であり、たくさんの高級ブランドの発祥地と認識されている。これはこのイタリアの歴史をたどると納得であり又それはイタリアの高級ブランド「グッチ」や「ブルガリ」のロイヤリティー(格式の高さ)の裏付けとなっている。


 今日の経済社会にあって「企業ブランド」とか「ストアーブランド」と云う価値感が重要視されている。それはその組織の数値的業績だけではなく、企業理念や社会的貢献、認知度や確信の持てる信頼感等の総合的な企業イメージが不可欠な時代となったのだ。私はイタリアをはじめヨーロッパ各地を歩きながら「ブランドロイヤリティーは一朝一夕には作れない、その築かれた歴史の後に付いてくるものだ。薄いメッキはすぐに剥がれて醜い素肌をさらすことになる。しっかりした下地作りから始めるべきなのだ。」と感じさせられた。


 イタリア各地を走ってもうひとつ気が付いた。歴史のある街や村のほとんどが丘や崖の上、叉は川に囲まれた場所に築かれていることだ。これは有史の始まりからそれぞれの町や村が絶えず侵略の驚異にさらされていたからだ。したがって城郭や教会を街の中央や高い位置に築き、周囲を幾重にも囲むように石造りの家を作り迷路にする。そうして敵の侵攻を防いできたのだ。
 もうひとつの理由に伝染病に対する予防策でもあった。歴史によるとペストの流行で町や村の全滅や人口の大半を失った時代があり、そのねずみ対策や衛生の為に下水を溜めない高台に村や町をつくることの必要があったのだ。


 シチリア島の高級リゾート地タオルミーナから海岸線にそってさらに南下した。左に美しい海岸、右にエトナ火山(3340mの活火山)の山並を見ながらカターニャの町を目指した。そこは今でも「シチリアのシカゴ」よ云われる程犯罪の多い町だ。シチリアは起伏の激しい山や丘と、荒涼とした大地が長年島の発展をさまたげている。そして19世紀頃、一部の農場主達の利益を守る為にマフィア組織が発生し、農民はしいたげられ、島は恐怖と相互不信の時代が続いた。そのマフィアは時代と共に都市にも進出し、利権をむさぼり、その為に法を無視してまで組織の絆を強め「オメルタ:沈黙の掟」による組織の統制は今でも歴然と存在しているらしい。これらの経済や社会環境が今でも若者が島を離れる要因となり、島の発展は益々厳しい状態だ。


シチリア島の内陸 は荒涼としていた

 カターニャの町はバカンスとフェスタで大変賑わっていた。渋滞する町中をスイスイとバイクで駆け巡り早々に町を出た。私は海岸線を離れ、シチリアのちょうど中心に位 置する断崖の上にある街「エンナ」を目指した。内陸のなだらかな、時には起伏の激しい丘陵とワインデイングロード(曲がりくねった道)をいくつもいくつも越えて走った。景色は見る程のものはなかったが、その変化に富んだコースは我々ライダーを楽しませるに十分だった。
  一時間程でエンナが見えてきた。正に見上げる程の高い絶壁の上に位置して、さてどこから登るのか不思議な感じがした。海抜900m はあると云うエンナは「シチリアの展望台」と云われて島全体を見渡せる場所がある。グルリと回って見つけた登り坂は急勾配で日本の城山に登るようだった。町に入ると現代的な建物はほとんど見られず、昔からの石造りの家をそのまま受け継いで暮らしている風だった。細く急な坂道と狭い路地が無数に入り組んで正に迷路そのものだ。確かにこれなら敵が攻め入っても迷ってしまう。そこには地図も案内板もない。何度も同じ道を走り、袋小路にぶつかり、ひとりで迷路の罰ゲームをさせられた気分だった。結局道を尋ねた車に出口あで案内してもらった。この町はいったい何で生計を立てているのだろうか、結局分からずじまいだった。


 エンナを後にしてパレルモに向かう街道沿いにポツンと一軒古びた家があった。お店らしい。食料品、と云っても硬いパンとチーズ、箱入りのスナック菓子や飲み物が少し置いてある程度だ。良く見るとガソリンも売っている。店内はカウンターと4テーブルの席のあるバールになっていた。入って冷たい白ワインを注文した。たったの1ユーロ(120円)だ。付出しにでたスナックをかじりながら店内を見回したら戸棚の影から小さな女の子がこちらを覗き見しいていた。「チャオ」と手を上げて声を掛けると「チャオ」と小さな声が返ってきた。私が自分を指差し「イオ ソノ ジャポネーゼ:日本人です」と云うと。その子は少しはにかんで表に飛び出していった。そして「日本人だ〜!」とかすれた声で叫びながら家の周りを走り回った。
  ワインを飲み干し5分程で席を立ち外にでると、幼い4人の子供がバイクの脇で待ち構えていた。余程日本人がめずらしいんだな。いや始めて見るようなかっこいいバイクに触れてみたかったのだろうか。余りにもの興味深い顔で私を見てくれるので、わざと日本語でべらべらとしゃべってみせた。皆顔を見合いながら「エー何を云ってんだ〜このひと〜」とはしゃいで喜んだ。さっきの女の子の頭をなでて「ベッラ:可愛いね」と云うと、「ギヤーッ」と声をあげて又騒いだ。私は子供達に何かプレゼントしたくなった。バッグに何かなかったろうか。まず扇子を開いて子供の顔を扇いであげると、あとの三人も私もやれと云って顔を突き出した。バイクのハンドルに付けていた大黒様のキーホルダーを外してあげた。「オーッ!」と云う声で皆が取りあった。「そうだあれがあった」成田空港で買ったチョロQを持っていた。外のテーブルの上で走らせて見せた。もう興奮のるつぼだ。
 中にいた親父と母親らしき女性が出てきてニコニコ見ている。もしかしたら私はあの子供達が始めて会った日本人かもしれない。「三歳子の魂百までも」と云う。彼等にとっての日本人は、面 白くて優しくててかっこいい印象を持って欲しい。 実は前号で書いたシチリアを舞台にしたジャンレモの映画「グランブルー」の中で日本人が登場する場面 があった。しかしその描かれ方が最悪に滑稽で情けない姿であった。映画のストーリーの中で全く不要と思えるその場面 を、あえてそんな描き方で挿入したことは、余程その監督が日本人に対して我慢の出来ない不快な感情を持っていたのだろうと推測する。だから私は日本人としていやなイメージをその子供達に残さないようにしたかった。
  最後にバイクに乗り子供達の「チャ〜オ!アリベデルチ!グラッツェ!」の声を背中に受けながら丘の向こうを目指してアクセルを蒸かせた。


エンナからパレルモへ向かって

 まるで西部劇映画「シェーン」のようなエンディングにひとり浸っていたら、いきなり前方の丘に空から閃光が走った。次の瞬間、私の五臓六腑に響くような物凄い雷鳴がぶつかってきた。「何だこりゃ〜、やばい!」いつのまにか空は黒い雲が広がっていた。しかし戻る訳にはいかない。今日の目的地パレルモの港まではまだ100kmも先だ。「まさか、この俺に雷が落ちるなんてないよな」と言い聞かせながらアクセルを開き130kmまで加速させた。
  高速道路ではないが、対向車はなく比較的整備された道路だ。「この場を一気に抜けてしまえ」。そのつもりだったがそう甘くはなかった。今度はいきなりどしゃぶりの雨だ。バイクを止めてカッパに着替える為の軒先きも木陰もない平原のまっただ中だ。それよりも早く走り抜けるしかない。半袖のシャツでヒジから下は生身の腕だ。大粒の雨がムチでたたくような強さでぶつかってくる。ものすごく痛いが必死でこらえながら走り続けた。5分で抜けるつもりのその苦痛は15分以上も続いた。
 雨雲を抜けて5分程で青空が見えた。茶色に枯れたひまわり畑の側でバイクを止めた。全身、ジーパンの中のパンツまでぐっしょり濡れ、ブーツの中もグショグショだった。着替えて走りだすと前方に又雨雲が見えた。今度は即全身を雨具で覆い完全武装した。「シチリアの夏は雨が降らないと誰かが云っていたのに」。
  パレルモにつくまで小雨が降り続いた。これも異常気象のひとつだろう。私が帰国したすぐ後に北イタリアに近いドイツやオーストリアで大雨大洪水が発生している。 シチリア島の首都でナポリへのフェリー港パレルモは、紀元前より地中海の貿易港として大変栄えた。その為その権益を求めて幾度となく支配国が変わり、残された建物や庭園などの様式も入り交じり、不思議な雰囲気が漂う町であった。


 当初私はさらに西の端「トラパニ」や「マルサーラ」を訪ねるつもりであった。しかし島の自然は天気が悪いと悲しい。それにバイクにとって雨は危険だ。小雨の街を回って港についた。ナポリ行きのフェリーは毎晩出航する。私はそのまま船にのることを決めた。 フェリーの波止場にはナポリやサルデーニア島へ向かうそれぞれの船が大きな船体のお尻を見せて並んでいた。チケットを買おうと売り場を探したが周辺をいくら探しても見つからない。近くにいた港湾の人に聞いた。教えられた方向で探したがそれでも見つからず焦った。結局最後に「まさかこんな場所にはないよな」と思いながら見に行った建物の裏手に隠れるように売り場があった。 まるで旧ソ連時代のナホトカ港のように「商売する気があんのかな」と思ってしまった。ナポリまでの船賃は何種類かある。「勿論エコノミークラス」と告げると「100ユーロだけどベッドも不要なら80ユーロだけんど」(多分南部なまりのイタリア語だったと想像)。貧乏旅行の私にとって20ユーロ(2400円)は貴重なので「ベットなしで」と注文した。畳はないだろうが寝ころべるスペースさえあれば十分だし、大きなフェリーなので居場所はいくらでもあるはずだ。
 私はこの10年の間に北海道へ2回、東京有明から日本沿海フェリーで31時間かけて苫小牧へ入り、道内をバイクで一周して函館から青函連絡船に乗り青森へ、そして東北を走って帰ってきた。そして四国へも川崎港から東九フェリーで20時間かけて徳島へ渡り一周した。船旅はいい。例え一泊のフェリーでもガレージ付きの大きなホテルに泊まるようなもので飲食店も売店や映画やゲーム、ダンスホールまである。
  一夜の船旅にもそれぞれ心に残るドラマがある。話のはきっかけは皆共通 だ
「御旅行ですか?どちら方面へ?それとも帰郷ですか?」 それは日本もイタリアも全く同じだ。


早朝フェリーでナポリへ入港

 寝るスペースを求めてフェリーのバールでたまたま一緒に過ごした老婆との出会いは、母親の深い愛を思い出させてくれた。ナポリに着いた後、あの老婆は中央駅から汽車にのってローマに向かうはずだ。空しい一人旅の行き着く先には息子の葬式が待っている。親が子供や孫達の幸せを見届けてから安らかに他界する自然の摂理は、送る子供達の心も穏やかで流れる涙も暖かい。しかし愛する子供を送る母のやるせない心と、先立つ子供の無念さは端で見る人々にとっても辛い風景だ。
 ナポリのサンタルチア港に入港したのは朝の7時過ぎであった。バイクを降ろした後、下船する乗客に老婆の姿を見つけられず、心のつかえを残したまま私は再びバイクのアクセルを蒸かせた。その日はソレント、ポンペイを巡って再びナポリに戻り、一夜のホテルを探す予定だ。

つづく


ポンペイを見下ろす塔の上

(次回は11月17日:ナポリ、ローマ、シエナ、サンジミニャーノまで)
(11月30日:フィレンツェ、ルッカ、ピサ、ジェノバまで)
(12月10日:サンレモ、ニース、そしてミラノ帰還)の予定です。

今回もつたない文章をお読み下さりありがとうございました。
お時間がありましたら是非御感想をお聞かせ下さい(東賢太郎)

次回は11月17日夜にアップします。

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