#07

2002年夏 イタリア一周バイク一人旅
ナポリ〜ローマ

 

<< BACK INDEX NEXT >>

 

              その7回目  
  ナポリは人口120万人を超える南イタリア最大の都市である。あのポンペイを廃虚にしたヴェスヴィオ火山の裾野に位 置し、ナポリ湾はソレント半島と沖に見えるカプリ島、イスキア島の島々に囲まれ、その風景の美しさは世界でも有数と云われている。その港は通 過する旅行者の数がイタリアで最大と云われ、貨物量もジェノバについで2位 と大きな役割も担っている。
  私はシチリア島のパレルモから夜行フェリーで一夜を明かし、早朝の7時にナポリに着いた。「ナポリを見て死ね」と云われる程自然の景観が美しい街だが、わずか20日間でイタリア一周を目指す私のスケジュールではゆっくり観光する時間はない。本来なら数日かけて巡るソレントやポンペイを駆け足で巡り、ナポリへ戻ったのは午後2時頃だった。


サンタルチア港から見た早朝のヴェスヴィオ火山

         < 馬車が走るナポリの道路事情 >

 海岸に近い緩やかな坂の途中にバイクを止めてサンタルチアの港を眺めていると、観光の馬車がパカパカと蹄の音をたてて登ってきた。さほど若くない熟年馬で坂道を登る力に余裕が見られない。路面 の四角い石畳は何百年と云う時を越えて角が削れて丸くなり、馬は何度か蹄を滑らせよろよろと腰を振りながら馬車を引いて来た。派手なTシャツ姿の若い御者は、携帯電話で誰かと大きな声で話をしている。私は何だか腹が立ち「可哀想じゃないか、こんな道を登らせるなんて少しはいたわってやれよ」と云いたかった。馬車はすぐ側の広場に入った。客待ちだろう。私は馬に近寄り首を軽くたたき愛撫しながら「お疲れさん」と声を掛けた。馬は丸く大きな瞳を細くして喜んだ。真夏の太陽がじりじりと馬の肩や鼻筋を照りつけていた。


夜の広場で見た馬車

 イタリアは昔の古い町並みをそのまま残すところが多く、その道路の幅はかなり狭い。中世の頃は自動車が道路を走ることなど想定していなかったのだろう。その狭い道路事情の為かイタリアの車は小型が非常に多かった。中型まではよく見かけたが大型車はほとんど目にしなかった。車は小さくても彼等の運転はとても荒っぽくスピードも出す。と云っては失礼だが、その運転スタンスはサッカーのゲームのようだった。お互い攻めて攻め捲る。町中だろうが高速道路だろうが追い抜きを楽しむかのように、前方にほんの少しでもスペースが出来ると即つっこんで前にでる。私はバイク走行の時は特に安全の為に車間距離をしっかり空ける。すると前を譲られたかのようにすぐに後ろから割り込んでくる。信号も日本程はきっちり守られておらず、お互いの責任とスリルの中でテクニックを楽しむゲームのように、車も歩行者も上手く折り合っている。と書くしかない。昨年のスペインツーリングと比べてイタリアツーリングはとても疲れた。今思うと運転に神経を使い過ぎたのだろう。


ホテルの部屋から見たナポリの道路

 ナポリの平日はものすごい交通ラッシュらしい。とすると馬車ものんびりムードでは走れない。「大変だな、あんなあんちゃんに使われて、辛いだろう。」と馬に囁いた。すると「グラッツェ、でもね、あれでいいとこもあるんですよ。それに私はこの町が好きだから。」と私の顔に鼻先をくっつけて答えた。「そうか偉いな君は、自分の仕事に誇りを持っているんだね。」「いやあ誇りと云う程ではないですが、皆さんがとても楽しんでくれますから。」「そうか、それならいいんだ。じゃあ怪我しないように元気でね。」「はい、あなたもイタリアの旅を楽しんで下さい。私もあと少しだから頑張ります。」と馬は首をたてに振って答えた。二人?で若い御者を振り返ると、彼はまだ電話中だった。
 イタリア人のおしゃべり好きは前にも書いたが半端ではない。だから会って話せなきゃ電話で、となるのだろう。そんな訳でイタリアでの携帯電話の普及率は相当高いらしい。どこへ行ってもその広告看板やチラシが目に入リ、プリペイドカードはどこでも買える。
イタリア中でみた
携帯電話会社TIMのポスター(私もTIMの電話を購入)

  私は馬にもう一度愛撫し御者に手をあげて別れた。  近くの聖堂を見て回り、しばらくして広場に戻ると馬車はちょうど客を乗せて走り出したところだった。その走る姿はとても晴れがましく自信に満ちていた。若い御者もしっかり胸をはり、馬に励ましの声を掛けながら坂を降りていった。私はその軽やかな蹄の音を聞きながら、やはりナポリに欠かせない風景だなと思った。


ナポリ湾の見える公園は恋人達の指定席

      < イタリア各地の繁華街で見られる光景 >  

 ナポリ市内をひと通りバイクで巡った後、目ぼしをつけていた3ツ星のホテルへチェックインした。105ユーロと少し高かったがガレージ付きで便利な立地だった。バイクと荷物を置いて身軽になった私は徒歩で庶民的と云われるナポリの街を散策した。目抜き通 り「ウンベルト一世通り」は土曜の午後で大変賑わっていた。通りの端から端迄ゆっくり歩くと30分程で、レストランやカフェ、そしてブランドショップが連なっていた。
  イタリア各地の繁華街で見る同じ風景がある。それはブランドバッグや時計などの露店だ。と云ってもしっかり台を準備している訳ではない。アフリカから出稼ぎに来た黒人達が、バッグを両手に目一杯ぶら下げて通 りを歩いたり、道ばたにビニールを敷いて並べたりして販売しているのだ。グッチ、ヴィトン、エルメスなど全てブランド品ばかりである。本物か偽造か分からないが、初め1000ユーロと吹っかけてきたエルメスのバッグを200まで値切れたのだから偽造に間違いないだろう。それでも首を振ると、小さな財布を付けると云う。テレビ通 販でもあるまいに。



 そしてイタリアはどうも不思議なことがある。このバッグや腕時計の販売は必ず黒人男性で、竹細工で鳥を作って販売するのは中国人。タトゥー(身体に入れ墨のように絵を書く)は日本人?。そして花売り(花はバラのみで一輪売り)と急な雨の時の傘の立ち売りはアラブ人、とはっきり決まっていたのだ。聞くところによると、華僑と組んだマフィア組織が統制しているらしく、当局のおとがめや注意も形式的なもののようで公然と路上で商売をしていた。
  今年ヨーロッパはユーロに通貨統合され、相互の国境もほぼフリーパスの状態となった。その為海外から流入した不法滞在者が急激に増え、国は法によって定住や就業を規制する措置を取り始めている。このことと露天商との関連、その裏側がどうなっているのか、日本人の私には全く伺い知ることは出来ない。
  ウンベルト一世通りにつながるトレド通りや広場、そして庶民が住む旧市街スパッカ・ナポリの路地裏も散策し、南イタリアの気取りのない生活風景もほんの少し垣間見ることができた。



真昼のサンタルチア港

         < 若い日本人夫妻との出会い >

 翌朝最上階にあるレストランの広いテラス席で朝食を取った。そこはヴェスヴィオ火山やナポリ湾が一望できる絶景の場所だ。天気も良く清清しい朝だった。その朝食でたまたま一緒になった日本人の若いご夫婦とおしゃべりを楽しんだ。企業プロモーション等のイベント等に関わるお仕事をなさっているお二人は年令40才、子供はいらっしゃらない。そこで一年に2回はこうして夫婦水入らずで旅行を楽しんでいると云う。子供中心となる一般 の家族単位と違い、夫婦二人の人生では相互の存在がとても大きく、いたわり合い、ぶつかり、喜び、悲しみ、常に見つめ合い分かち合って生きているのだろう。と全くの想像でしか語れないが、お二人はその後の人生を共に寄り添い幸せにまっとうする為に、夫婦の絆をとても大切にされているように感じた。
  私がイタリアへ旅立つ少し前に、同じ年齢位で子供のいない友人夫婦のご主人が突然倒れ他界した。残された婦人のショックは大きく、これから一人でどう生きてゆけばよいのかと途方に暮れるその姿が私の心を痛くした。
  夫婦では片方を「つれあい」と表現する言葉がある。二人で一対となり喜怒哀楽を共有し励ましあい、常に連れ合って人生を築きあげていくと云う思いが込められているのであろう。お話をしたご夫婦とは数日後フィレンツエで再開し、彼等のお気に入りのレストランで食事をする約束をして別 れた。


ホテルのテラスで丸岡さん御夫妻と

   < カナダから来たイタリア人家族と同伴の日本人女性 >
 その日私はナポリ市内の旧跡を訪ねた後、250km離れたローマを目指し高速道路を一気に北上した。この区間はイタリア国内で交通 量がもっとも多く、車のスピードも半端ではなかった。時速150kmで走る私のバイクをあっと云う間に追いこして行く車もある。おそらく180km以上は出ているはずだ。ついついつられてアクセルを蒸かせてしまいがちの心をぐっと押さえて走った。
 イタリアの高速道路は30〜50km程の間隔でサービスエリアがある。しかし日本のそれと比べると規模は全く小さい。3〜5分の1くらいだ。日本程車の量 が多くないからだろう。
 ローマに近いエリアのカフェテリアで私は日本人女性とあった。イタリア人らしき家族に混じって入ってきた20代の日本人らしき女性と視線が合った。
「コンチハ!」と声を掛けると「日本の方ですか?」と笑顔が返った。連れの家族も一緒に私のテーブルに付きおしゃべりをした。カナダのバンクーバーに語学留学中の彼女「玲さん」がホームステイしているお宅のご家族と共にイタリア旅行に来たと云う。そのご主人はイタリアからカナダへ移民された方で、夏のバカンスを故郷のシチリアで過ごし、これからローマに寄ってカナダへ帰るらしい。 長い髪で笑顔がとても素敵な彼女はイタリアに来て始めて日本語を話せた、と云って喜んでくれた。小学生の男の子二人を連れたイタリア人ベルカストロ氏と私はほぼ同年で、1960年代のイタリアサンレモ音楽祭の話題で大いに盛り上がった。
  その音楽祭はその当時日本でも大変人気があり、入賞曲は日本のヒットチャートにも登場していた。ちなみに「ボラーレ」は第一回サンレモの優勝曲だ。その頃はいわゆるカンツォーネブームで熟年の方は懐かしく思いだすだろう。ベルカストロ氏が「あの音楽祭に着物を着た日本人も参加してたね」と云った。伊東ゆかりのことである。よく覚えているなと驚いたが、そう言う私もその当時の歌の歌詞をしっかり覚えていた。
  入賞曲で大ヒットしたボビーソロの「頬にかかる涙」やジジオラチンクエッティーの「夢見る想い」等をくちずさんで聞かせた。一緒にくちずさむ父親を二人の男の子達は不思議そうに見上げていた。ベルカストロ氏は異国の地で努力を重ね、幾つかの会社を経営するビジネスマンとして成功した。別れ際に「来年はカナダを走りに来なさい。自然の雄大さと美しさはツーリングに最高だよ」と云ってカナダの住所を書いてくれた。玲さんは一旦日本へ帰り、今度はワーキングビザを持ちカナダに戻るそうだ。日本の若者がそうしてグローバルに生きる勇気に心からエールを送りたい。そして私はいつか必ずカナダの自然の中を走ってみようと思った。


ベルカストロさん親子と玲さん

 再び高速道路を走り、夕方5時頃ローマに入った。学生の頃ヒッチハイクで訪れて以来で31年振りだ。イタリア統一の1870年に首都となり、当時わずか30万人だった人口は現在300万人となっている。まっ先に訪れたスペイン広場もトレビの泉も昔と全く変わっていなかった。しかしバカンス時期の日曜日の午後だからか、ものすごい人で混雑していた。陽射しも穏やかになったので、スペイン階段で昼寝でもしようかと思っていた私の思惑は打ち砕かれた。私はすごすごと街をはなれ10km程離れた郊外の小さなホテルにチェックインした。
  静かでとても優しいオーナー夫妻の心のもてなしに私は旅の疲れを癒された。夕食の後、オーナーの差し入れてくれた赤ワインを飲みながら、その後の旅の計画を練り直し、久々早めにベットに入った。


       < 中国料理の店で出会った人々 >  
 翌日、朝から円形闘技場コロッセオやサンピエトロ寺院を見学してお昼を向かえた。イタリアに入って約2週間、各地の料理もいろいろ味わったが、どうも満足できる店が少なく、ついついマクドナルドにお世話になった。美味しいレストランの情報不足や貧乏旅行であったからだ。マックを利用したもうひとつの利用はビールもあることだった。ハンバーガーにビールは、暑くて乾燥しているイタリアだから美味しかった。
 そろそろ日本食が恋しくなった。知人から聞いていたローマの日本料理店「濱清:ハマセイ」を目指した。トレビの泉の近くですぐ見かったが運悪く月曜の定休日だった。久々の日本食を腹一杯食べようと楽しみにしていたのにがっくり。どうしようか店の前で考えていたら、日本人女性がやって来た。私が「今日は定休日だって」。すると彼女は「そうなんですか、悲し〜い」。二人とも他に日本食の店を知らなかった。二人でしばらく話をしながら歩いていると大きな中華料理店があった。「チャーハンとマーボ豆腐が食べたいな」「私は春巻きとラーメンが食べたい」と云うことで昼飯はそこに決まった。
 12時頃でまだ時間が早く客は少なかった。小柄なクーニャン(中国女性)が「ボンジョルノ」と云って迎えてくれた。中国人と日本人がイタリア語で挨拶と云うのは何か妙なので、私は「ニーハオ」と返した。すると彼女のすました表情がすぐに崩れてニコット笑顔を見せた。注文の時「リーベンレン:日本人」と中国語で云うと、近くの棚のビールを指さして「キリンあるよ」と日本語で云った。「あっホント、でも青島ビッラ(チンタオビール)、ペルファボーレ」と私が答えると、「何だか変」と日本人の彼女が笑った。とりあえずお目当ての品を注文しビールで乾杯した。


トレビの泉は大混雑

 30歳前後の彼女は2年前からフランスに転勤した御主人と一緒に、フランス北部の都市に住んでいると云う。子供のいない彼女は日本での仕事を止め期待してフランスに行ったのだが、言葉の壁と地域の環境も合わず友達もできない、と云って辛そうに語った。日本では御主人がフランスに転勤、なんて聞くと「うらやましい」と云われるはずだが、当の本人達には辛い現実もあるようだ。
  そんな話をしていたら、スラリと背が高い、東洋人の若い女性が3人で入ってきた。私達の横を通 る時、お互い何気なく目線を交わした。「日本人じゃないよね?」「そうですね韓国人でもないですね、中国人かも」席についた女性達もこちらに視線を向け、何か話している。多分向こうでも同じ会話をしているのだろう。話すしぐさを見て私は「あれ中国人だと思うよ」と云った。注文の時、店の女性と親しげに話していた。始めてではないようだ。
  ひと通りの食事が終わってお茶になった時、私は向こうの女性達に乾杯のポーズをとった。するとその3人もこちらに合わせて笑顔で茶わんを上げた。私達が帰る時ちょうど彼女達も席をたった。何となくその場で立ち話が始まり5分程話した。彼女達はやはり北京出身の中国人で、雑誌やファッションショーの仕事でドイツとスイスを回って来たと云う。そして今、日本に一番興味を持っている、来年は是非日本へ行きたい、と云った。英語はほぼ完璧で、ひとりは日本語も少し話した。何だか近い将来、日本は中国大陸の側にある小国になってしまうのではないかと感じた。


コロッセオの前にて BMW F650

     < 心を離れないフェリーで出会った老婆のこと >

 日本人女性と別れた後、私はフェリーで出会った老婆のことを思い出した。
ローマで暮らしていた息子の急死を聞き、その葬式の為にシチリアからひとりで来ているはずだ。私は無理を承知で近くの教会を聞いて回った。「今日どこかで男性のお葬式はないですか」 しかし名前も日時も分からないのでは無理だ。訳を話すと神父がこちらへ来なさいと手招きして、私を礼拝堂の最前列へ案内した。そして「あなたはここで祈りなさい」と云って神父は祭壇に上がった。一緒に祈ってくれたのだ。
 私はキリスト教徒ではない。しかし小学生の頃に住んでいた四ッ谷にある聖イグナチオ教会の日曜学校に通 っていた。私はまだ覚えている祈りを心で唱えた。「父と子と精霊との御名においてアーメン、天にまします我らの父よ・・・」 祈りを終えて外へ出た私は、あの老婆と別 れた後も残る重い胸のつかえが少しとれた気がした。私はローマの街を抜けてシエナに向かう街道にでるまで、道行く人々の中にその老婆の姿を探した。 私は今でもあの老婆のことが心を離れない。
                  
                  つづく

 

(次回は12月3日:シエナ、フィレンツェ、ルッカ、ピサ、まで)
(12月10日:ジェノバ、サンレモ、ニース、そしてミラノ帰還)の予定です。

今回もつたない文章をお読み下さりありがとうございました。
お時間がありましたら是非御感想をお聞かせ下さい(東賢太郎)

<< BACK INDEX NEXT >>


JUNE HOME