#08

2002年夏 イタリア一周バイク一人旅
シエーナ〜キャンティー街道

 

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ローマからシエーナへ

           その8回目 芸術の町シエーナ 
 ローマから北へ300km、フレンツェの手前50kmの所に芸術と学問の町シエーナがある。中世の面 影を色濃く残し、黄土色とゴチックの町と云われるこの町は、12世紀頃から頑強な自治都市として頭角を見せた。そして当時イタリア全土を政治的に二分していた教皇派と皇帝派の抗争では、皇帝派に属し教皇派のフィレンツェと幾度となく戦うこととなった。その為今でもシエーナの人々はフィレンツェに対する対抗意識がとても強い。13世紀後半から町は交易と金融業で大きな富みを得て栄え、ゴシック様式の重要な歴史的建造物はほとんどがその頃に造られた。しかしその後シエーナはペストによって人口が激減し、さらに幾度もの戦闘で勢力を落とし、16世紀半ばにはトスカーナ大公国(現在のフィレンツェ)に併合された。


シエーナの大聖堂とカンポ広場

 7月31日午後、シエーナに入った私はドゥオーモ(大聖堂)近くにホテルをとり徒歩で町を散策した。町は縦1 . 5km、横1km程の範囲に入り組んだ長い城壁で囲まれ、坂や階段、曲がりくねった道の複雑な町並みをしている。世界で一番美しいと地元が自負する大きなカンポ広場を中心に、ロマネスク様式のドゥオーモやブップリコ宮殿等の歴史的建造物をそのまま現代に残し、正に中世の町にタイムスリップしたようだった。
  誰でも必ず足を踏み入れるカンポ広場は扇の形をし、石と煉瓦敷きで扇の付け根に向かって緩やかな下りのスロープになっている。夕方の広場にはたくさんの人々が集まり、そのスロープに腰をおろしておしゃべりが始まっていた。広場の下の方で何かもめている日本人カップルがいた。時折周囲の人々が気になる程男の声が荒くなった。
  私は旅の途中イタリア人カップルの喧嘩を何度か見た。バールやカフェで女性が声を荒げて手をあげるシーンも見た。しかし、しばらくして静かになったと気付いて振り返ると、二人は抱き合ってキスしている。最後はいつも男性が女性をフォローしているのだ。
 広場の二人の様子はそんな楽しい愛の喧嘩ごっことは違う空気が漂って不快だった。私は彼等の少し後ろに腰をおろし声を掛けた。「こんちは!」 又余計なおせっかいをしようとしたのだ。「あっ、どうも」男が振り返って素っ気無い挨拶を返した。「もしかして新婚旅行?」「いや僕達は留学生です」と振り返らずに不愉快そうに答えた。しかし代わりに女性が振り返り、私に首を振り悲しい視線を送った。その顔は涙に濡れていた。どう云う理由か知らないが、私は女を泣かせる男は嫌いだ。それも身勝手な男のわがままで。後ろの私が気になるのか二人はうつむいて黙り込んでしまった。


午後のカンポ広場 (プブリッコ宮殿:市庁舎とマンジャの塔)

 イタリアの中で一番きれいなイタリア語を話すと云われるこの街には優秀な語学学校がある。そこにはヨーロッパのみならず、日本や世界中から若者がイタリア語を習いに来ていた。寮に入ったり、ホームステイをして1〜2年本格的なイタリア語を勉強をするのだ。
 黙ったままの二人に私は「俺バイクで旅してるんだ」と声を掛けた。すると男が「あっ、そうなんですか」と振り返り少し笑顔を見せた。私は二人の横へ行きしばらく旅の話をした。女性は台湾人だった。「こんな可愛い人を相手に何をもめていたんだよ」と冗談ぽく振ると、彼が素直に話し始めた。ペルージャに近い小さな村にある語学学校で知り合い、付き合って半年になる。彼は思うように勉強が進まず、又特にはっきり目的を持たずに留学したので意欲も薄れ、もう帰ることをきめた。彼女はあと一年残って勉強を続けると云う。それだけのことならまだ別 れようがあっただろうが、どうも他にも問題を抱えてしまったらしい。
はっきり云わなくても想像がついた。それは気の弛んだ男の不注意だ。「それは全て男の責任だぞ。せめてしっかりフォローしてから帰りなよ」と話した。彼は急にぽろぽろと涙を流して小さくうなずいた。


シエーナの町中

 広場の近くのインターネットカフェの看板に「日本語フォント有」とあった。イタリアではめずらしいことだ。そのカフェで最近バイトを始めた日本人留学生がそのフォントを設定したらしい。久々のインターネットであちこちへメールを送った後、隣でキーボードをたたいていた日本人女性と話をした。シエーナの語学学校の留学生だ。20代後半くらいの彼女は「不況でやり甲斐もなくてストレスばかりが溜まるOL生活が空しくなったの。それで何かを変えなくてはと思ってここへ来る決心をしたんです。」毅然とした言い方だった。私は「それは正解だよ。自分から動き出せば景色は変わるし選択肢も必ず増えるもの。」と同感の意を表した。すると「その為に2年間必死でお金を溜めんです。男に全部おごらせて」(笑)。 「それでいいんだよ。男はその為に働いているんだから」(笑)彼女は又真顔になり「あと一年、お金が続くかどうか心配だけど、イタリア語を絶対ものにして帰る」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
  町の語学学校には今もたくさんの日本人が留学している。実は私の甥も8月末からそのシエーナで3ヶ月間の語学研修し、イタリアン料理の修行の為に一人で他の町へ旅立った。今年の春、訳あって離婚した彼は新しい人生を目指して一から料理を勉強し直そうと考えたのだ。決意と云う言葉の先にははっきりした目標がある。それがあるから辛いことにも耐えられるのかもしれない。
彼等に 「ブオナ フォルトゥーナ!(幸運を!)」


塔の街「サン・ジミニャーノ 」

 翌朝いよいよ花の都フィレンツェを目指した。シエーナからフィレンツェに向かう途中に世界遺産の「塔の町」サン・ジミニャーノがある。12世紀頃から中世の宿場町として栄えたこの町は、特産のサフランでも大いに潤った。その大きな富みを得た貴族達が、単にその権威を誇示する為に競って巨大なモニュメント(石の塔)をたくさん築いたのだ。
  当時72塔もあったそれは大半が崩れ落ち、現在14塔となっている。 私は一番高いグロッサの塔にのぼった。何の飾りけもない四角い塔の内側は全くの空洞で、細いはしご階段が幾つも折り返し連なってあるだけだった。途中の踊り場にかなり年輩の西洋人男女が座り込んでいた。二人とも大柄で太ったドイツ人夫婦だ。ご婦人が軽い心臓発作を起こしているらしく、青ざめた顔をして胸に手をやっていた。「大丈夫ですか」と声をかけると「薬を飲んだから心配ないよ」と御主人が笑顔を返した。婦人も笑顔を作って手をあげた。はしご階段を少し上がって二人を見下ろすと、御主人が婦人の頭を抱いて何か優しく語りかけていた。
  てっぺんから見る外の景色は、古い町並みと緩やかな丘陵地帯にひろがるブドウ畑。正にトスカーナそのものだった。しばらくして塔を降りると、さっきのドイツ人夫妻はもう下に降りて他の観光客と楽しそうにおしゃべりしていた。
「もういいのですか」と聞くと「全く問題無し」と云って笑った。「旅先で倒れることを恐れていてはどこへも行けないよ」と云いたそうな二人だった。


ちいさなワイナリー

 そこからフィレンツェに向かう道路はキャンティー街道と云い、周辺はイタリアで有数のワイン名産地だ。陽当たりに恵まれ、乾燥し、水はけのよい土壌の丘陵地帯はぶどう栽培の全ての条件を満たしている。こんな時のバイクは何かと有利だ。ぶどう畑の細い道でも、丘でも小川でも、道なき道も自由自在に走り回れる。通 りすがりにワイナリーを見つけては中を覗かせてもらった。ひとり旅のライダーはどこでも親しみを持って歓迎してくれる。公開していない小さなワイナリーも「こっちへ来なさい」と奥迄案内してくれ、飲ませてもくれた。トスカーナの代表的なぶどう「サンジョヴェーゼ」で造るキャンティーワインだ。味は爽やかな酸味とスパイシーが特長だそうだ。ワインの知識は余りなかったが、美味しいと云うことは身体が感じた。好きな人にとっては多分たまらない体験であっただろう。お世話になったワイナリーでは記念にボトルを一本ずつ買った。しかしそれは2日で飲み干した。旅の間そうして毎日美味しく飲んだワインを帰国後は余り飲まない。なぜだろうか。イタリアの空気や気候、そして食べ物との相性もあるのだろうか。そう考えると、日本酒はやはり日本で飲むのが一番、となるのだろう。とにもかくにもトスカーナの美味しいワインの里を隅々まで走り回ったことの満足感で私は幸せだった。

「花の都フィレンツェ」

 14世紀後半、フィレンツェは敵対する近隣都市との度重なる戦争の負担と、当時各地で蔓延していたペストによる人口激減で大変苦しい状況にあった。そこでフィレンツェ市民は、当時毛織物で急速に富みを拡大し頭角を表していた若い商人ジョバンニ・ディ・ビッチの力に町の再興を期待した。これがメディチ家登場のきっかけとなり、以降メディチ家はフィレンツェの発展になくてはならない存在となった。そして同時期に隆盛したルネッサンス期の芸術や建造物は、ほとんどメディチ家の富と権威の証しとして作られたものと云われている。またその後の政治はジョバンニの長男コジモに始まり、16世紀中頃からはコジモ一世の登場により専制政治が確率された。  
 フィレンツェと云うとやはりクーポラのあるドゥオモ(大聖堂)だろう。正式名称はサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母大聖堂)。レンガ色の瓦が引き詰められた8角形の屋根は、シンボルとなっている。私はドゥオモに入り、階段でクーポラのてっぺんまで登った。そこから見る360度の景色には何の障害物もなく、遠いルネッサンスの頃と同じ青い空が広がり、町は静かにたたずんでいた。
 クーポラの内側に戻ると聖堂の真上であった。その頂点から見下ろす聖堂の大きさは正に東京ドームのグランド程に見えた。そしてその収容人数を知って驚いた。何と25000人を越えると云う。つまりその町の市民全員を収容できる広さが基本だと云うのだ。



 フィレンツエについたその夜は、ナポリで出会った丸岡さん夫妻と再会し、美味しいピザの店に案内してもらう約束だった。それは「アンティカ・ポルタ」と云う名で、車で5分程の町はずれにあった。TVのウルルン滞在記に出てくるような小太りで陽気なマスターが、忙しい店内を動き回りながら何度も私達のテーブルに顔をだし「美味しいかい」「楽しんでね」などと声を掛けていく。美味しいものへのこだわりを持つ店はお客様への心のサービスも忘れていない。
  何の変哲もない店内は地元の人々ですぐ満席になった。どれを食べても美味しい。料理が美味しいと気分が乗って会話が弾む。旅先でたまたま出会った私達は再び食事を共にし、仕事やアフリカ旅行の話で盛り上がった。私は彼等のように子供がいない夫婦を何組か知っている。友人や、店のお客様達である。二人だけの生活を幸せに過ごしている御夫婦に共通している事がひとつある。御主人がとても思いやりがあり優しいと云うことだ。これは子供が全て独立して二人だけになった老夫婦でも同じことが言える。一生を連れ添う人生の「つれあい」はやはり思いやりある人が一番だ。



 フィレンツェの見どころは沢山あり過ぎて、時間の少ない私は初めから諦めていた。しかし、シニョリーア広場、サンジョバンニ礼拝堂、ウフィツィ美術館、ヴェッキオ橋位 は見ておかねばと走り回った。
 ウフィツィ美術館に行ったのは翌朝の10時頃だった。外の回廊には40人程 並んでいた。ホテルの案内では2時間は待たされると云っていたが、これなら15分程で入れる。一緒に並ぶ人同士でおしゃべりが始まった。私の周辺にいたのは若い人ばかりで、ドイツ人、フランス人、トルコ人、他もいたはずだ。共通 語はやはり英語だった。しかし撥音のニュアンスがそれぞれ微妙に違っていて面 白かった。向こうの人々はただ黙って待つことはなく、皆ひっきりなしにおしゃべりする。行列は15分たっても一歩も動かなかった。入り口に立つ電光掲示板に「予約客が優先だ」とあり、それらしき人々がどんどん中に入って行く。「何だそうか、事前予約ができたのか」。私が中に入れたのは一時間半後だった。しかし苛立っていたのは私くらいだった。おまけに中に入ってからチケットを買い、又行列に並び、入場するまでにさらに一時間もかかった。
 私はスキー場のリフトも、ディズニーランドも、床屋さんも、10分以上待つことが出来ないせっかちな人間だ。必ず人の少ない平日や時間帯を考えて行く。もしダ・ヴィンチやミケランジェロやボッティチャリやラファエロ等のルネッサンス期の絵画作品を集めた美術館でなかったら私は30分で帰っただろう。
 美術の愛好家なら2〜3日かけて見る程の美術館を、私はたった1時間で駆け巡った。後で「もちろんウフッツィ美術館も見た」と云う為に。
  しかしデカイ。一枚の作品の大きさが畳6枚も10枚もあるような大作ばかりなのだ。やはりルネッサンス期のお金が有り余る時期だったからであろう。蛇足だが、このウフッツィの名前の意味は、美術館になる前はいろいろな事務所を配した役所だったらしく、その意味があるらしい。英語のオフィスはここからきたらしいのだ。と、らしいの羅列で恐縮してしまう。
 先を急ぐ私は町をバイクでもう一回りし、フィレンツェを後にした。その日はルッカ、ピサを巡って300km先のジェノバまで行く予定だった。


 各地の都市国家が覇権を競い戦いに明けくれた中世の時代を巧みな政治力で戦火を免れてきたルッカは、中世の町をそのまま無傷で残してきた。そして他の町と同じく景観保護法により、城壁に囲まれた旧市街は街並も道路も建物も全てそのまま残されている。
 ルッカでは車両走行禁止の町中を私は知らずにバイクで走り回り、途中で三人の警官に取り囲まれてしまった。厳しく叱られ罰金65ユーロを請求された。その場で払う決まりらしいのだが、私は知らなかったの一点張りで結局警官は根負けして諦めてくれた。「少し反省。でもグラッツェ」。


 ルッカから30分程の距離にピサがある。斜塔や聖堂、そして礼拝堂のあるドゥオモ広場の入り口にバイクを止めて中に入ると、緑の芝生に囲まれるようにそれぞれの建物が静かにたたずんでいた。入り口から奥へ伸びる直線道路の片側は小さなおみやげ屋がひしめき列をなしていた。ピサの斜塔はこの時期予約しても登れるのは明日、と聞き諦めた。
 すぐ脇の芝生に寝転がって斜塔を見上げていたら眠り込んでしまった。やはり疲れていたんだ。何時間も寝たように思えたが、目が覚めて時計を見るとわずか15分だった。荷物が無事だったことにホットして起き上がろうとすると、さっき隣で真っ昼間なのに濃厚にいちゃついていたカップルに写 真のシャッターを頼まれた。気持ち良く応じたが、ファインダーを覗くとキスをしている。「アホ!」と首から下だけ撮ってやった。「ゴメン!」。


     <ジェノバは地中海に面したイタリア最大の貿易港だ。>
 ピサからジェノバまではどこへも寄らずノンストップで急いだ。夜の7時過ぎにジェノバに入り町中で安宿を見つけた。この旅で一番安い宿賃で30ユーロ(3600円)だった。魔法使いのような無気味な容姿の婆さんが私を部屋まで案内した。階段毎に鍵が必要で廊下は暗く、まるでお化け屋敷きのようだった。
 荷物を全てベットの下に隠し外へ食事にでることにした。フロントの婆さんに近くにバールはないかと訪ねた。するとあるからついて来な、と云ってホテルに鍵をかけ先に歩き出した。そうか今夜の客は私だけなんだ。
 バールにつくと婆様は大きなジョッキでビールを飲み始めた。そして周りの客と大きな声で話し始めた。どうも私の話しらしい。しかし5分もしない内にその姿は消え、空のジョッキだけが残っていた。やはり魔法使いだった。実は部屋代は先払いで、翌朝は勝手に出て行けと云われていたので、婆様とはそれっきりである。
 暗い路地裏の小さなバールの人々は余り出会うことのない日本人を歓迎してくれた。しかしいやな客もいた。昔米軍に所属していた時期があり、日本に1年間駐留したと云う中年男が、日本語を沢山覚えたと云って自慢した。そして一言ずつ話してはひとりで受けて笑い転げてる。全て卑猥な言葉だった。そしてもっと凄い言葉を教えろとせがんだ。私はしかたなく「我が輩は幼稚でござる」と教えた。本当の意味を知らない彼は反復しながら又ひとりで笑い転げてる。
 旅の間生の音楽に飢えていた私が「生の音楽を聞きたいんだけど」と尋ねるとその男がジャズなら知っている、と云って場所の地図を書いてくれた。タクシーで5分の所にアンジェリータと云う店があった。しかし時間は夜中の一時、もう演奏は終了していた。がっかりして帰ろうとしたら店の人が「すぐ近くのカフェで若い者達が練習している」と話し案内してくれた。そしてこのカフェの地下の倉庫だと云う。一瞬いやな予感がした。「ゴメン、今夜は帰る」と云って出口に向かおうとすると男が私の腕を掴んだ。「まずい」と思った瞬間、下からジャズの演奏が聞こえてきた。振り返って男の顔を見ると笑っていた。



 演奏のレベルはなかなかいい。これなら変な心配は不要と男の後をついて地下におりた。10坪もない倉庫の真ん中で4人のコンボが演奏していた。他に仲間らしき男女5人。男が皆に私を簡単に紹介した。バンドの4人は私に軽く挨拶した程度で無関心を装い演奏を続けた。案内してくれた男は知らぬ 間に帰ってしまった。居心地が悪かった。曲はデイブブルーベックの「テイク5」だ。相当昔、世界中でヒットした4分の5拍子の曲で、後半ドラマーが気合いの入ったドラムソロを聞かせた。私はそのソロに一人で拍手を送った。演奏が終わるとドラマーが汗をふきながら私に笑顔を送った。
 夏だと云うのにクーラーがなかった。大きな扇風機が2つあり、地下だが片方に窓があり換気はされていた。何曲か後にピアノの男が「何か聞きたい曲は?」と聞いた。私は「チュニジアの夜、が聞きたい。実は今私の友人がこの地中海の向こう岸のチュニジアを旅してるんだ」と話した。すると彼は「お前も楽器やるんだろう、一緒にやるか」といきなり聞いた。「いや一緒にやる程上手くないんだ」。そう云ってどっと汗がでた。「何だそうか」と云う顔でその演奏がはじまった。
 この曲は私の好きなバドパウエルのお得意で散々聞いた。演奏は初めのテーマの後、まずピアノから即興演奏にはいった。ジャズの魅力は即興演奏(インプロビゼーション)だ。初めに全員で原曲を忠実に弾き、その後そのコード進行とメロディー、そしてリズムをベースにして、それぞれが思うままにイメージを膨らませ、その場で即興で作曲しながら演奏するのだ。ピアノの次はギターへ、そしてベースへ、最後にドラムに移っって行く。即興をお互いに楽しみ「いいね今のそのフレーズ、それじゃ俺のこんなフレーズはどうかな」なんて目と耳と心で会話しながらソロの即興を回してゆく。最後にまた皆で初めのテーマ演奏に戻って終わる。その間演奏者と聴衆の間には、その即興演奏に生ずる主張と期待である種の緊張感が漂う。演奏が終わるとその緊張から解けてどっと拍手が湧く。「今の演奏結構いけてたね」などと。これは素人ジャズファンの私の勝手な解釈なのだが。
 曲間の会話で私のバイク旅行を知ったピアニストがベーシストを指先して「あいつの親父は昔アメリカ大陸をオートバイで横断したんだぜ」と云った。「もしかしてそれルート66?」と私が聞くと、ベーシストが「そうだ、そうだ」と答えた。私はうれしくなって「If you ever plan to mortor west・・・」と人気のジャズ「ルート66」を口ずさんでみせた。  この歌は1960年代のアメリカのテレビドラマ「ルート66」(当時NHKで放映)のテーマ曲で、若者二人が車に乗って、東のシカゴから西のロサンゼルスまでの2000マイルを仕事をしながら旅をする物語りだった。当時高校生だった私は、アメリカにあこがれ、旅にあこがれ、そして知らぬ 間にその歌詞を全て覚えてしまった。そのルート66は昔アメリカのマザーロードと呼ばれアメリカ経済の大動脈として活躍した。現在では他のハイウエーが取って代わり、ルート66は古びた記念ロードと化してしいる。しかし今でも郷愁を持ってその道を走る人が多いのだ。
  何も云わずにピアノがその曲を演奏し始めた。「おい参ったな〜、やってくれるね」胸が熱くなった。後から三人も加わり軽やかでノリの良い演奏となった。ワンコーラスの後、私に歌えと誘った。うずうずしていた私はピアノの横へいって歌った。「It wind from chicago to LA・・・」これをコンボバンドで歌うのは始めてだった。ピアニストが「いいぞ」と云う顔で私を見上げて笑った。演奏が終わると私はもうすっかり仲間として受け入れられた気分だった。「もう一曲歌えよ」と云ってくれるのを遠慮して彼等の演奏を最後まで楽しんで帰った。 その夜私は暗い夜道も、部屋も何も恐くなかった。
 翌朝ジェノバから海岸線にそってサンレモを目指した。リビエラ海岸は森進一の歌「冬のリビエラ」が頭に浮かぶ。そのままフランスに入るとコート・ダ・ジュール、そしてスペインの「コスタ・デル・ソル」へと行き着くのだ。                     つづく




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