#最終回

2002年夏 イタリア一周バイク一人旅
シエーナ〜キャンティー街道

 

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     最終回  サンレモ、そしてミラノ帰還

<  魔法使いの婆さんとの別れ >
 前夜のジャズバンドにすっかり満足した私はすっかり寝入り、目が覚めたのは朝の9時過ぎだった。「明日の朝は鍵をここに置いて勝手に出て行きな」としゃがれ声で云った魔法使いの婆さんを起こさないように静かに階段を降りた。 畳3畳程の薄暗いフロントの前に出るとその婆さんが待っていた。
  ドキッ!作り笑顔を見せて「ボンジョルノ」と挨拶した。「遅いね、今日はどこへ行くんだい。昨日のバールでコーヒーを飲んでから行きな」と、多分そんな感じのことを云われた。婆さんはそう云いながら外まで私を見送りに出た。私が「グラッツェ、アリベデルチ!」と云うと、「気を付けて走るんだよ」とハンドルを握る身ぶりを付けて私に云った。バイクで走り出す私に小さく手を上げ、笑顔で「チャオ!」と云った。その姿は、朝の太陽に輝いて聖母マリアの様に優しく美しく見えた。



リビエラで出会ったオーストリアの若者ライダー

        < リビエラに沿ってサンレモへ>  
 ジェノバから西に伸びるリビエラ(海岸)に沿って私はサンレモを目指した。ミラノでバイクを借り、北イタリアを回り、南へ下り、シチリアを経由して再び北上したこの旅もそろそろ終盤だ。
  地中海とアルプスにはさまれて自然の温室のように年中温かいこのリビエラ地域は、夏のバカンスだけでなく古くから避寒地としても有名だ。その気候のお陰で花の栽培はイタリアで一番多く、種類も相当な数らしい。
 私は森進一の「冬のリビエラ」を歌いながら美しい海岸の景色を楽しみながら走った。私はバイク走行中よく声を出して歌う。それは眠気覚ましもあるが、景色と風に歌が加わるとその体感が心にさらに深く残るからだ。
 リビエラをそのまま西へ走るとフランスのコート・ダ・ジュール(紺碧海岸)さらに走るとスペインに入り美しい海岸が1000kmも続く。そして行き着く先は私が昨年走ったコスタ・デル・ソル(太陽の海岸)だ。
 サンレモまでの道筋ではその美しい海岸に何度も足を止め、それを眺めて食事をし、そして海にも入った。この地域ではトップレスが当たり前のようで珍しくなかった。そのプロポーションの綺麗なイタリア女性達の海辺の姿は真夏の太陽で私にはとても眩しすぎた。  



          < サンレモ着 >  
 夕方6時頃、椰子の木が立ち並ぶサンレモの海岸に着いた。ホテルを探そうと道端できょろきょろていると、10代の若い男の子が声を掛けて来た。「ホテルを探してるんだ」すると「ここがいいよ」と目の前の門を指差した。ベッカムの少年時代のような甘いマスクの人なつっこい笑顔で云った。じゃあそうしようと中に入った。たくさんの草花が咲いている庭の奥に小さなホテルがあった。 少年は家族でこのホテルに滞在しているそうだ。
 フロントには大柄で太った60代のおばあさんがひとりで座っていた。「ひとりだけど部屋はありますか」と聞くと「日本人かい、良く来たね。ここに名前を書いて、パスポートを見せて」と有無を言わせずペンを差し出した。サインをしていると奥から背の高い70才位 のおじいさんが出て来た。このホテルの主人らしい。外にバイクを止めてある。と告げると一緒にガレージに案内してくれ荷物も持ってくれた。
  「荷物を置いたらここでコーヒーを飲みなさい」とおばあさんが優しい笑顔で云った。イタリアで一緒にコーヒーを飲むと云うことはおしゃべりをして親愛の情を深める行為である。家庭的な雰囲気のいいホテルだと感じた。

 

     < 宮殿の中庭で聞いた往年のジャズメン達の演奏 >  
  コーヒーを飲んだあとサンレモの町を散策した。毎年2月にサンレモ音楽祭が行われる高級リゾート地として世界に知られるこの街は、今まで訪ねた他のリゾート地と比べて落ち着きと品のある大人の街と云う感じで気に入った。
 散歩から帰るとフロントで待っていたおばあさんが「見つけたわよ」と云って小さな新聞の切り抜きを私に渡した。出がけに「生の音楽が聞きたい」と云った私のリクエストに答えてくれたのだ。「宮殿の中庭でジャズの夕べ」と云うホントに小さな予告記事だった。多分老眼鏡をかけて必死で探してくれたんだろう。
 歩いて15分のその宮殿の門に小さな案内を見つけて中に入った。上り坂の広い庭を歩いて登ると200席程の椅子を並べた中庭があり、野外ステージが設けられていた。30分程前だが一番乗りだった。ビールを飲みながら待っていると二人、三人と連れ立った年輩の人々が集まって、演奏が始まる頃にはちょうど200の席が埋まった。無料で予約もいらないこの演奏会に何でこのようにぴったりの聴衆が集まるのか不思議でならなかった。

 往年のジャズメンと云う感じの老年クインテッドがすばらしいテクニックの演奏を聞かせてくれた。前にも触れたがジャズの魅力はインプロビゼーション(即興演奏)だ。曲のテーマを楽譜通 りに演奏した後、その和音進行に乗せてメンバーが順にそれぞれのイメージで即興で曲を作り演奏をする。そしてもうひとつの魅力は不協和音がもたらす和音進行の味わいだろう。クラシックでは決して多用しない不協和音をこれでもかと云う程多用するジャズの和音進行はとてもセンスィティブでスリリングで理論的だ。さらにその不協和音は後に来る正和音の美しさを何倍にも際立たせる。
 人生もそんな感じでいいのではないか。苦労の合間に小さな幸せが適度にちりばめられている。だから幸せと感じるのだ。苦労も不幸も受け止め方で無駄 にはならない。54年生きて来た私はそのコツを幾つかものにした。楽しくて幸せばかりの人生なんてありえない。これからも喜怒哀楽、そこそこ波乱万丈のJAZZのような人生を楽しみたい。
 途中から男性ボーカルが加わり、スタンダードとカンツォーネを歌った。歌いながらステージを降りて来た歌手が一緒に口ずさむ私の口元にマイクを向けた。遠慮なく歌う私に聴衆からやんやの拍手が湧いた。
 「グッドジョブ」と後ろに座っていたアメリカ人夫妻が私の肩をたたいて声を掛けた。テネシー州のメンフィスに住んでいると云った。学生時代にカントリー&ウエスタンをやっていた私と話しが合わない訳がない。メンフィスはエルビスプレスリーの町であり、そしてカントリーの本拠地ナッシュビルにも近いからだ。帰り道も歩きながらその話しは続いた。思い掛けない二夜連続の幸せな真夏のジャズナイトだった。




     < 老夫婦オーナーの居心地の良いホテル >  
 そのホテルの居心地はイタリアに来て一番良かった。わずか6部屋の小さなホテルで、老夫婦二人だけでやっているらしい。客は皆常連さんのようで、親しげに家族のような接し方をしている。二人を見ていると話し方も、しぐさも、動作も、すべてゆったりと、急がず穏やかに笑顔を絶やさず、そして心を込めて対応している。建物も部屋も古く質素であるが、清潔感があり木の温もりを感じさせるような柔らかい空気に包まれたホテルだ。 「本当のもてなし」というのは押し付けでなく、「物」でなく、「空気」なのかもしれない。サンレモにもう一度来る事ができたら又ここに泊まろうと思う。


        < フランス経由ミラノへ帰還 >  
  翌日はミラノへ帰還の日だった。しかし私はサンレモを発ち、まず海岸沿いにフランスを目指した。国境までわずか25km。せっかくだから記念入国して帰ろうと考えたのだ。岬を回る度に見える美しい景色。山本コウタローの「岬〜めぐりの〜、バスは〜走る〜」と「岬めぐり」を歌い、無事にこの旅終えてミラノへ帰れる満足感を味わいながら走った。
 30分でモンテカルロ着。あのモンテカルロレースのコースを走り、更に30分でニースの海岸に着いた。国境での検問は廃止され、どこが国境線であったか気ずかず越境していた。昼時であったが、フランスフランに両替えするのが面 倒と何も食べず、飲まず、ただ海岸を散策して帰路に着いた。実はフランはユーロに通 貨統合されていることをすっかり忘れていた。 「これでもう満足だ。さあ帰ろう」私は一気にミラノを目指し高速道路を突っ走った。



     < ミラノ在住10年の森田氏との語らい >
 ミラノに帰還したその夜、私は友人から紹介されたミラノ在住の日本人男性に会った。ミラノで活躍するヘアー&メイクアップアーチストの森田はじめ氏である。日本でヘアスタイリストの仕事をしていた彼は、商業主義の経営に納得がいかず10年前単身イタリアに渡った。そしてまずペルージャの語学学校でイタリア語を学んだ後このミラノに来た。何のコネも実績もないひとりのアーチストが仕事を得ることは、外国人が仕事をすることに社会的ハンデがあるイタリアでは大変困難なことであった。しかし森田氏は現在ミラノコレクションを初め、雑誌や映像の仕事で大変活躍されている。昨年NHKの番組で北野武氏がイタリアを訪れ、塩野七恵さんと対談した時も森田氏がメイクを担当された。
 ミラノに来て丸10年、森田氏は歴史と伝統のイタリアでたくさんの芸術的絵画に接し、メイク表現のヒントを得たと云う。そうした彼の努力と、ナイーブと精悍を合わせ持つオリエンタルで魅力的な彼の風貌がミラノで存在感をアピールしているように感じた。
 森田さん行きつけの中華レストランで久々美味しい食事をし、話したりない私達はドゥオモ広場とスカラ広場を結ぶアーケードの中にあるカフェに場所を変えて、日付けが代わるまでおしゃべりを楽しんだ。
 ある時、森田氏が塩野七恵さんをドゥオモの見えるテラスでメイクをしている時、塩野さんがふとこう言ったそうだ。「私はこうして町の風景を眺めているとそこで起こった歴史の光景がひとつひとつ映像となって見えてくるの」と。十数年もイタリアに暮らして歴史を研究し、それを本に書き続けた塩野さんの頭の中では2000年を越えるイタリアの物語がまるで体感したかのようにいつでもリアルな映像となって蘇るのだろう。
 「そろそろ日本へ凱旋しても良いのではないのですか?」と森田氏に云うと
「・・・・ここにはまだ得るものが沢山ありますから・・・・・・」と云って彼は赤ワインを口に運んだ。私はそんな質問をした自分が少し恥ずかしくなった。その日までの3週間、イタリア各地を回り、見て感じたイタリアの歴史、そして数々の芸術と文化的遺産は、どれも何十年、何百年と云う時空の中で、巨額の費用と数えきれない優れた芸術家と職人達が技の粋を集めて作ったものである。観光に来た私が軽々しく投げかける言葉ではなかった。
 今日本で人気の高いイタリアンブランド「グッチ、プラダ、ベルサーチ、マックスマーラ、フェンディー」等もそれぞれ歴史と伝統の物語があり今のブランドロイヤリティーが作られたのだ。若い人々にはその深い価値をもっと理解して、そのファンに相応しい接し方を心掛けて欲しい。
 イタリアは決して裕福な国ではない。デパートは「リナシェンテ」1社のみでどこを見ても贅沢な生活感を感じない。消費国家である日本人から見ると物質的に貧しさを感じさせられる位 だ。しかし皆毎日のようにピアッツァ(広場)に集まり、カフェやバールで語らい、楽しく暮らしている。幸せの価値観は他人が押し付けるものではない。
  私と森田氏は「人間はほどほどの幸せで良いと思う。その代わり全ての人々がそのほどほどを味わえる世の中であって欲しい。」と云う意見で一致し、再会を約束して別 れた。




 ミラノのマルペンサ空港を離陸した飛行機の窓から、私は遠い南の空を眺めながら、パレルモからナポリに渡るフェリーで出会った老婆に思いを馳せた。もうシチリアのマルサーラに帰っただろうか。あの時私の手に握らせた20ユーロ札は今も使わずに持っている。元気で長生きして欲しい。そして又いつかシチリアを訪れて元気な老婆の姿を探したいと思った。   

                 


 個人的な旅の話しを長々と書き綴ってしまいました。素人のつたない文章を最後まで読んで下さりありがとうございました。           東賢太郎



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