#01 2004年夏 北海道バイク一人旅 その1
はっぴーとーく樹音 店主:東賢太郎(56才)

 

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 私は毎年夏は国内や海外をバイクでひとり旅するのを楽しみとしている。今年は北海道だった。北の大地「北海道」は、人口約570万人(日本全体の5%)、面積は国土の22%を締め、四方を大平洋、日本海、オホ−ツク海に囲まれた雄大な自然の宝庫だ。北海道はもともとアイヌの人々が自然の恵みを享受し、独自の文化の元に暮らしていた場所だ。しかし明治初期(1873年)に屯田兵条例が施行され、北海道開拓と外国に対する警備を目的として、仕事を失った武士を送り込み徐々に開かれていった。

 真夏の北海道をバイクで旅するのはこれで3回目だ。過去2回は有明からフェリーで31時間かけて苫小牧へ入り、帰りはいつも函館から青森に渡り東北を回って帰った。今回は長野を経由し新潟港からフェリーで小樽へ入った。幸い好天に恵まれ、沢山の人々と出会い、ひとり気ままなツーリングはゴキゲンモードで終わるかに思えた。しかし予定を5日残し、突然情けない結末が私を襲った。



▲フェリー乗り場

 それは北海道を一周した帰り道、室蘭からフェリーで青森県八戸港に午前3時に着いた後だった。私は留まる場所もなくそのまま走り出し、300km離れた仙台に向けてアクセルを蒸かせた。真夜中の高速道路は皆ハイスピードだ。東北道を仙台まであと20km地点で、快調と思っていた私のバイクのエンジンが突然ロックした。私は瞬間クラッチを切りブレーキをかけ路肩に止めた。少し湿っぽい夜明けの高速道路で、時速120kmのままスリップして横転したらただじゃすまない。ライダーとして何のプロテクターも付けずに走行する御法度を自覚しながら、生の身体で風を受けて走りたい私は、常にそのリスクを覚悟しながらツーリングしている。セルは回り、ガスも十分だがエンジンは全く反応しない。お手上げだ。レッカーを待つ間他のバイクやパトカーが立ち寄り心配してくれた。道路公団の車は追突防止の為に最後迄私のバイクの背後に止めてサポートしてくれた。皆さんに余計なお手間をかけてしまった。


▲道路公団 のサポート▼

 川崎を出た初日、長野市で田中知事の部屋を観光気分で見に行った。玄関にコンシェルジュと書かれた受付があり「田中さんの部屋はどこですか?」と尋ねた。すると男性職員が「ご案内します」と云って玄関近くにある部屋まで丁重に案内してくれた。報道の通り部屋は完全なガラス貼りで、中は全てはっきり見える。田中知事は外遊中で不在だった。「写真を撮ってもいいですか?」と聞くと「どうぞ、知事が在籍中でもフラッシュもOKです」と云った。部屋は大きな木製の丸テーブルがあり、知事はほとんどその席で仕事をしているらしい。壁には高価な絵ではなく、小学生のクレヨン画が掛けてあった。どんな質問でも親切になんでも答えてくれた。「すみませんね、こんなミーハーな観光客が多いでしょう。」すると彼は「はい、とても嬉しいことです。長野は観光が大きな産業ですから。宜しかったらお帰りに受付で知事の名刺を差し上げてます。」と笑顔で答えた。こんなオープンな部屋では利権がらみの密談はできないだろう。そして高価なデスクにふんぞり返って、権力と名誉に浸たりたい官僚出身の他の知事には耐えられない部屋だ。知事室がこうあらねばならない、とは思っていない。これも、それぞれの知事のポリシーであり、大切なことは行政の中身だ。


▲長野県青木湖の風景

▲長野県木崎湖の風景

▲善光寺

▲長野県知事田中氏の知事室

▲長野県庁の特別コンシェルジュ

 その夜、長野市内の繁華街にある広場で小さなジャズフェスティバルがあった。私は地元の人々や実行委員スタッフとテーブルを囲み、ビールを飲みながら音楽談義に華を咲かせた。今年2月に「梶が谷音楽祭」を代表として企画実施した私にとって、こんな市民手作りのお祭りは人事に思えずエールを送る心境だった。と云うのは、毎年8月にアメリカの一流ジャズメンを招いて行われていた「斑尾高原ジャズフェスティバル」がこの夏、資金不足の為企画途中で中止になったのだ。他の地域でも中止の話が多い。真夏の太陽がガンガン照りつける高原の広場で、バドワイザーをグイグイやりながら身体でジャズを聴き、夜はロッジやカフェでジェズメンの即興演奏や息使いに耳の神経を集中させて聴く。それは六本木のライブハウスとは違う味わいがあった。


▲長野市内でのジャズフェスティバル▼

 私は旅にでると必ず各地のライブハウスやフェスティバルをはしごする。新潟でも小さなジャズクラブに入った。客は4人。それでもライブは続いた。ビジネスとしては苦しいはずだ。しかし存続して欲しい。又来るか分らないがハウスにバーボンのボトルを入れた。ボーカルの女性と私の好きなカントリー&ウエスタンの趣味が合い、近くのカントリーハウスへ誘われた。私は今どき地方都市でC&Wのライブハウスが存在することに感激し又ボトルを入れた。私は何年振りかで泥酔し、その夜はホテルのベットでのたうちまわった。


▲新潟市内のC&Wライブハウスにて▼

 小樽に向かう船は昼の11:30に新潟港を出航した。乗客の中にたったひとり外人女性がいた。二等船室では居場所がないらしく、喫茶室でポツンとひとりで長時間、時の過ぎるのを待っているかのようだった。夕方になって私は声を掛けた。「こんにちは、ここに座ってもいい?」日本語で聞いた。「どうぞ」と笑顔が返った。アメリカのカンサス市から群馬の小さな村の中学校に英語の教師として来ていると云う。「外人なのでみんなじろじろ見るけど誰も声を掛けてくれずいやだった」と云った。札幌で2週間の日本語セミナーに参加するようだ。名前は「ポーラ」、私は「ヘイヘイ、ポーラ」と昔のアメリカンポップスを歌った。「ポールとポーラ」と云う有名なデュエット曲だ。彼女も合わせて歌った。回りの皆がけげんな顔で見ていた。少しホームシックで落ち込んでいたらしい彼女をデッキのバーベキューに誘い、おかしな和製英語の話で盛り上がった。名刺を交換した。私の会社の社名:ジュネットの頭に冠したテーマ「ビッグハグカンパニー:抱擁の会社」を見て彼女は「この名前は何?」と云ってコロコロと笑った。二人の会話は最後まで日本語で通した。私は楽だったが、彼女は疲れただろうな「ゴメンナサイ!」。

 

▲フェリーで出会ったアメリカ娘ポーラさん

 東北道でのエンジントラブルの原因はオイル不足だった。2000kmも走るのにそのチェックを怠った私の初歩的ミスで、これもライダーとして失格だ。全国にバイク販売網を持つ「レッドバロン」にお世話になった。部品が揃わずその場の修理は不可能と分かった。そこは仙台から北へ20KMの古川市だった。さてどうしよう。思案に暮れた。

 新潟を出て小樽に入港したのは夜明けの4:00だった。約60台の他のバイクと共に吐き出された私のバイクは行き場がなく、近くの漁港の岸壁でしばらく夜明けを待った。一槽の小型漁船が帰って来た。「お帰りなさい」と声を掛けた私に、深いシワとこげ茶色に焼けた顔の老人がニコニコ笑いながら「どこから来た」と云って私の横へ座った。「今景気はどうですか?」「小樽に限らずどこもダメだあ。でもなあこいつが可愛いから毎日海へ出る」と云って23年になると云うその船を愛おしそうに見つめた。


▲小樽の早朝

▲小樽の海鮮市場

 私のバイクももう10年を過ぎていた。乗って帰れないバイクを「もしご希望ならこちらで買い取りも出来ますよ」と云われた。運ぶにも、修理するにも大きな費用がかかる。そうしようかと一瞬考えた。しかしあの爺さんの言葉が頭をよぎった。「可愛いバイクをここに置き去りにするのは忍びない、可哀想だから」と云って川崎まで陸送してもらうことにした。

 小樽を出た私は日本海側を留萌(ルモイ)を経由して北の果て稚内(ワッカナイ)を目指した。海岸線を真直ぐ走る国道は一車線の狭い道だが交通量は少なく他の車はバンバン飛ばしていた。夕方ならどこを走っても海に沈む夕陽が見えるはずだ。各所に小さな公園やパーキングがあり、それぞれ夕陽にちなんだ名前「日本一夕陽がきれいな公園」等の看板が目に入った。
 留萌市の「黄金岬」はニシン漁全盛時期の名残りを感じさせる有名な夕陽スポットだ。この岬はかつてはニシンの見張り台で、夕陽に映し出された群来(くき:ニシンの群れ)がキラキラと黄金色に輝きながら岸をめがけて押し寄せたことから、この名前が付いたと云う。正に栄華盛衰を知る思いだ。

 黄金岬に近い茶店の物知りな御主人から北海道の地名について講釈を受けた。北海道の地名はほとんどアイヌ語の名前を当て字で表現したものだと云う。例えば石狩川はアイヌ語で「イ・シカリ・ペッ」(非常に曲がりくねった川)だった。そして札幌はアイヌ語の「サッ・ポロ・ペッ」(乾いた大きな川)が訛ったもの。「静内:しずない」はアイヌ語で「シャチナイ」(広い川のある沢)。「紋別:もんべつ」はアイヌ語「モウペット」(静かな川)が訛ったもの。つまり「ポロ:幌」は大きい、「ベッ:別」は川、「内」は沢叉は水場、の意味があると云う。なるほど、そう云えば北海道の知名には、「別」「内」「幌」の字が多く使われている。私はこの聞きかじりの知識をいたるところで他の旅人へ偉そうに講釈した。

 稚内に近いオロロンラインの海岸線で、利尻島をシルエットに見た夕陽の美しさは感動ものらしい。私はその時間に合わせて走りたかったが「残念!」、曇って利尻の姿も拝めなかった。私はこのオロロンラインに沿って広がる広大なサロベツ湿原に入った。ここには「日本一の牧場」といわれる面積約1,400haの広大な大規模草地放牧場があり、湿原は春から夏にかけてミズバショウやエゾカンゾウ等の花々が地平線まで続く。その草原を横切ると豊富町がある。

 その町迄まだかなりある原野の道を若いカップルがアメリカンバイクを押して歩いていた。私は手を上げて通り過ごした。「奴等ガス欠だな。次の町迄はかなりあるぜ、可哀想に」。私は次の町でガソリンを調達し彼等ののところまでもどった。するとすまなそうに「ガスはあるんだけど、故障でエンジンにガスが届かないんです」、ガクッ。「OK、じゃあ俺のバイクで引っぱってやるよ」。通りかかった乗用車から借りたロープでトロトロと30分、町迄引いてあげた。「もう相当古いバイクなんでバイク屋さんに置いて帰ります。二人で沖縄からずーっと宗谷岬を目指して来たんですが」。ダパンプのイッサと柴崎コウによく似た(もしかしたら、まさか)のような二人はさほど落ち込んだ風もなく手を振って私を見送った。日本の端から端迄か。「上等だぜ、やれる時に何でもやっておけばいい、俺だって浪人中にヒッチハイクで回ったんだ」。旅の途中こんな旅人と毎日沢山出会った。


▲沖縄から宗谷岬を目指して旅して来た二人

つづく

 

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