#02

2004年夏 上海小旅行
はっぴーとーく樹音 店主:東賢太郎(55才)

 

<< BACK INDEX NEXT >>


*中国文字*

タクシーに飛び乗り、とりあえず上海の中心部「人民広場へ」と告げた。中国読みで発音したがどうも方向が違う。紙に漢字で書いて見せた。中国はこれができるので何かと便利だ。中国漢字は簡略文字も多く、日本語と意味の違いもあるが、内容はおおよそ検討がつく。やはり少し遠回りしていた。上海のタクシーは行儀が良いはずなので、まさか「おとぼけ」とは思わないが確認して良かった。走りながら携帯電話でホテルを探し、広場の近くにあるホテル「金門大酒店」に着いた。4つ星だが約8000円と安く、便利で格式あるホテルだ。荷物を置いて繁華街にでた。

*ココでもマクドナルド*

近くの「マクドナルド」でバリューセットを注文し腹ごしらえをした。今上海には日本のラーメン、牛丼チェーンを初め外資、中国企業に限らずこういったファーストフード店はかなり多い。コンビニも今は過剰気味、立派なデパートも回りきれない程増えている。私は1991年に初めて中国へ行き、北京からウイグル自治区の首都ウルムチへ飛び、シルクロードをバイクで敦煌等を経由して西安まで走った。その当時ウルムチや西安はまだ高層ビルどころか、ビルと呼べるものはほとんどなく、ケンタッキーフライドチキンの一号店がやっとオープンしたばかりの時代だ。それを思うと格段の発展だ。

*又おせっかいな俺*

食べながらガイドブックを見ていると、隣の席の子供達が連れらしい近くのテーブルの子供達と騒ぎながらポテトや氷りの投げ合いが始まった。他のテーブルの若い男性が大きな声でしかっているが母親は黙々と食べるばかりで無視している。たまりかねて私が日本語で「コラ、何やってんだ、拾いなさい!」と叱り、投げたポテトを指した。一瞬回りがシーンとなった。子供達はその空気にも驚いたのか、黙って拾いだした。私も一緒に拾い、おとなしくなった子供の頭をなででやった。母親はぶ然とした顔で私をにらみつけている。
 何年か前に我が化粧品店で5才位の男の子がダダをこねて、店の中で大の字に寝てギャーギャーわめいた。母親がいろいろなだめるが全く云うことを聞かない。近くにいた私も初めは優しくなだめながら手を差し伸べたが、その手を足けりにした。「コラ〜!男のくせに何だ〜!」とどなった。私のあまりの勢いに驚いたのか、男の子はあわてて立ち上がり母親にすがりついた。「だめだよ男の子なんだから」と優しく云うと、べそをかきながら大人しく「うん」とうなずいた。しかしその母親は帰り際に私に「もうこの店には来ません」とぶ然とした顔で帰っていった。それ以来そのお客は来店しなくなった。気にかかっていたある日。それから一年は過ぎていたが通りでその母親にばったりあった。「コンニチハ!」と声をかけると、「あの時はすみませんでした。あの子はあれからあんなダダをこねなくなりました。そして云うことを聞かない時に、又あのおじちゃんにしかられるよ、と云うとピタッと大人しくなるんです」と云って感謝された。ホッとした。マクドナルドでの母親はどうだろうか。いや、日本と中国の歴史的関係を考えると、余計な口出しで大きなトラブルになりかねないことを忘れてはならない。ひとつ間違うと大変なことになる。やはりおせっかいはお節介(でしゃばって、あれこれ余計な世話をやくこと)なんだ。

 

*上海人のお行儀*

通りに出て大きな交差点で信号待ちをしていたら、中年の女性が食べ終わったトウモロコシをポンと道に投げ捨てた。「オイオイそれはないだろう」と思っていると、交差点で横断指導をしていた係員がそれを拾ってその女性に投げ返し、何かまくしたてた。その女性も負けじと何かどなり返している。しかし結局女性はそれを拾い歩きだし、途中で又ポイと捨てて去った。もちろんこんな人はほんの一部だろうし、日本でも道路に座り込んで飲食し、そのまま放置して去る若者が沢山いる。上海の大通りの歩道はとても綺麗だ。それは箒とチリ取りを持って循環する人が沢山いるからだ。交差点の信号無視も係員の指導で大分良くなったらしい。市民の倫理観を高めようという町の努力をあちこちで感じた。近年加速気味に発展する中国は今その過渡期にあり、日本の20倍ある広い国土の、13億と云う全国民の規律や倫理観、文化マインドは経済の発展速度に追い付くにはまだまだ時間がかかるだろう。とはいえ共産国家から自由経済の導入が始まった中国の変貌ぶりは、デパートやその他のサービス産業に接した実感でみると、営業用の笑顔が板に付いてきたなと感じさせられる程本格化している。あと数年で中国は日本にとって驚異になるだろう。

*今度は保安係りに付きまとわれて*

私は国内外にかかわらず旅をすると必ず各デパートや店の化粧品売り場をのぞき話し掛ける。同業だと告げると皆親し気に話をしてくれるからだ。デパートの化粧品売り場は片言の英語を話すスタッフが多かった。上海でも沢山の売り場を回り何が売れてるか等聞きながら、小売業の実体を視察した。販売は非常に積極的だ。ある有名デパートで売り場の写真をさりげなく撮っていたら保安係が寄って来た。別に声をかけるでもなくその後私の後を付いて回った。構わづ回って話をつずけた。
資生堂の売り場の女性が多分「この人は日本の化粧品屋さんで・・」と説明してくれたのだろう、保安員は笑って立ち去った。資生堂は中国ではNO.1の高級ブランドメーカーで、求人に対しても毎回200倍以上の応募が有ると云う。大卒初任給の2割位に相当する程高額な日本の基礎化粧品でも良く売れると云う。まだ貧富の差は激しい。しかし人口の5%と考えても、都市部中心に約6000万人以上の金持ちがいるのだから売れるのは理解できる。

*中国女性の誘惑*

夕方、今上海で一番ホットなエリアと云われる「新天地」を歩いた。旧フランス租界を再現したと云うレトロ風の2階建ての建物が、約100mの遊歩道の両側につずいている。
どれもお洒落なレストランやカフェで、生バンドの音があちこちから聞こえてきた。私はポップスのライブハウスに入った。ひとり寂しくカウンターに腰掛けて「青島ビール」を注文した。中国に限らず外国では夜一人で行動する人は少ない。ましてひとり女性はまれだ。すぐあとから入ってきた一人の女性が私の横に座った。日本人らしい。目があったのでとりあえず「ワンシャンハオ!」と挨拶した。「こんばんは、日本人?」と応えが返った。中国人だ。ガイドの仕事をしていて日本語も勉強している、といった。一緒に飲んで話をし、夜景の綺麗な運河沿いも散歩した。こんなこともあるんだ、と少し気だ弛んだその時、「私あなたの部屋へいってもいい。でも少し助けて欲しい」云ってお金の話をだした。「おいおい、そう云うことか、ゴメンネその気はないよ」と苦笑いで答えた。女性は英語で「あなたはケチ、もう一時間も付き合った」と云いながらも、笑顔で何度もしつこく私を誘惑する。「ここはそんな町なのか?がっかりだよ、いいからもう帰りな」と云ってタクシー代500円を差し出した。するとあきらめたのか「もういい」とそのお金は取らずベンチに座り込んだ。その日中国の公安に追われたこともあり、馬鹿な行動をしまい、と考えていた、からだけではないが、私と中国との関係はそんなものでゃないと思た。私の両親は満州からの引揚者で、私も縁あって中国少年の日本留学の身元引き受けもしている。私にとっては愛すべき中国だからだ。女性は「私いつか日本に行きたいの」と身の上話をし始めた。裕福な家庭で育ったようだが日本への憧れが強く、大学卒業後ひとり上海に出てきた。ガイドの仕事は嘘で、留学費用を溜めるためにもう一年位夜の町で仕事をしていると云う。名刺を見せられた。一種のデート倶楽部の名刺だ。何枚か日本人の名刺も見せられた。駐在員もいる。名刺なんか渡す日本人がいるのか、と唖然とした。私達は桟橋から最終の遊覧船に乗り川風に吹かれながらデッキで話をした。彼女が聞きたいと云うので日本の話や、その他の国の話を聞かせてやった。デッキで、遠くに目をやりながら黙って話を聞く彼女の心境は分らない。しかし本当に外へ出たいんだな、と云う気持ちは感じられた。最後に「名刺を下さい」と云われたが「ゴメンネ、日本に来たらこの顔を探しな」と云ってタクシ−代を渡して別れた。本当はいい娘なのかも知れない。と少し後ろ髪をひかれる思いを感じながらひとりホテルへ帰った。上海はアヘン戦争に敗れた後、1842年の南京条約により通商港として強制的に開港させられた。イギリスやフランス等8カ国がそれぞれ「租界」と云う治外法権のエリアを市内に設け、そこを東洋の貿易拠点とした時期があった。今上海は中国の外来文化や文明の窓口として、建物も文化も人も皆エキゾチックでエネルギッシュで開放感のある町だ。しかし十何世紀と云う歴史と伝統の中で今も変わらぬ価値観で生活するヨーロッパの人々と違い、何か危うさを感じさせる上海の街であった。ホテルのベットで天井を見上げたら、井上陽水の唄「なぜか上海」が頭のなかで流れだした。

つづく

<< BACK INDEX NEXT >>


JUNE HOME