シルクロードツーリング1991

この旅行記は11年前私が書いたものを一部
書き直したものです。
樹音店主:東賢太郎(53歳)

 

 悠久の時を越え、東と西を結び歴史と文化を運び続けたシルクロード。旅のラクダが列をなし、砂丘にオアシス蜃気楼。村ではロバ車がバザールに、ぶとうにハミクワ香辛料。そして夜はワインでシシカバブー。ウルムチ、敦煌、西安を中心とした中国西域は、まさにロマン漂うシルクロードのふる里だ。西洋と東洋を結ぶこの道は、乾いた砂の砂漠とガレ砂漠の中を見え隠れしながら果 てしなく続く。人々は逆巻く砂嵐の中を野心を抱いて西へ。ラクダの背にゆられ、仏の教えを説きに東へ。正に西遊記の世界であった。
 1991年夏、私はオフロードバイクでそのシルクロードを走った。中国の西、新彊ウイグル自治区の首都ウルムチから東へ1600kmのカヨクカンまで。当時参議院議員だったアントニオ猪木氏の呼びかけによって設立された国際民間交流使節団「トラバス2000」に参加したのだ。日中親善を目的として100台のオートバイで中国西域の街を訪問して回った。この企画は日本企業の後援を得て、さらに中国政府の公式招待として実施された。

 北京→ウルムチ→トルファン(吐魯番)→ハミ→敦煌→カヨクカン(嘉峪関)→西安。バイク走行はウルムチからカヨクカンまでの約1600?。道は砂漠の中。途中ひと休みする日陰すら無い。朝晩は5℃、日中は約45℃までと言う温度差の中で走り続けるには、テクニックより体力であった。当時私は43歳。その一年前に二輪の免許を取得したばかりの初心者であった。
 8月8日、スポンサーである全日空で北京着。人民服、自転車の列、朝の公園の大極拳、正にガイドプック通 りの北京は、あの天安門事件がうそのように平穏であった。人民大会堂での歓迎レセブションは政府の要人、そして中国舞踏の美しいクーニャン達の熱烈歓迎であった。中国の人々と何度も交わした乾杯(カンペイ)はアルコール分11%、少し生ぬ るい青島(チンタオ)ビールだ。中国を離れるまで、ビンに水滴の付いた冷えたビールを見ることはできなかった。まだ電気冷蔵庫の普及していなかった中国では、それが普通 だったのだろう。一部の仲間がたまらず氷をもらいビールに入れて飲んだ。しかしその氷が原因か腹を壊してダウンした。当時の中国では生水は危険で、氷も食べるものではなかったようだ。まだ高度成長の前夜で北京にケンタッキーフライドチキンの1号店が出来たころだった。

 2日後我々は中国民航で約4時間、ツーリングの出発地点である新彊ウイグル自治区の首都ウルムチに飛んだ。新彊は中国の一番西に位 置し、面積では中国の六分の一を占めている。ソ連、モンゴル、アフガニスタン、インド、パキスタンに国境を接し、漢民族やカザフ族など47の民族が共存していた。そこは2000年の歴史が残した数々の遺跡を持つ中国最大の行政区である。シルクロードはここ新彊で南、北、中央に分かれて西へ伸び、カスピ海やアフガニスタン、イラン、インドにも向かった。万年雪の天山山脈の高峰が連なるかと思えば、トルファンのように海抜以下の盆地もあり、淡水湖、世界中の塩をまかなう事も出来る程の塩湖、草原、砂漢、ゴビ、オアシス、そして酷熱酷寒の気候、新彊は正に大自然のスケールをドップリ味あわせてくれた。
 我々のバイクはすでに2カ月前、川崎港から船積されて海を渡り上海へ。さらに汽車で運ばれこの街で我々の到着を待っていた。ウルムチから北へ約70km離れた軍用空港から、出迎えの10台のマイクロバスが公安のパトカー先導で市街へ向かった。バスは日産の新車、しかし何台かのバスのフロントガラスには、大きなひびが入りガムテープで補強されていた。砂利道の為、前の車が小石をビシビシとはねるからである。修理したくてもガラスの予備は無い。これは車だけに限った事ではなく、上海や北京から遠く離れた内陸部では、あらゆる部品、メンテナンスが不足していた。各地で宿泊した上級ホテルのテレビ、ラジオ、ドアーの錠まで、壊れたままのものが多く、まだまだ発展途上であった中国の事情が感じられた。
 多少の悪路はもろともせずバスは思いっきり、まさにカッ飛ばして走る。クラクションを頻繁に鳴らし、前の車や対向車をまるで追い払うように走る。目前に対向車が迫ろうと平気で追い越しをかけ、その対向車は路肩に転げ落ちんばかりに急停車させられている。パトカー先導の為か、最新の外車だからか、まるで錦の御旗でも掲げたように気の大きくなったドライバーは街に入ってからも、横断する歩行者を前にしても全くスピードを緩めない。ニコニコ笑顔で、しかも流賜な日本語で案内してくれるガイドの指先より、我々は前方の人や対向車が気になった。しかし歩行者はあわてる風もなく、ヒラリヒラリと実に憤れたかわし方ですり抜けて行く。ガイドの「この運転は少し行き過ぎですが、おおよそこんなもんです。皆さん気を付けて下さいね。」我々は言葉も無くフウッとため息をついた。約一時間、外の景色をゆっくり楽しむ余裕が戻らない内に、手に汗を握るドライプはホテル友誼飯店に到着した。「まいった、まいった」皆顔を見合わせながら苦笑いであった。
 我々は何はさておき、ホテルの庭に届いているバイクに2カ月振りの対面をした。海を越え、さらに5000kmの汽車の旅を経て来た愛車は、案の定バッテリーやエンジン不調、そしてサビ。一発でエンジンのかかるバイクは少なく、それぞれ必死の調整であった。エンジンがスタートする度毎にホット胸をなでおろすライダー。久々の愛車の快いアイドリングについついVサインしてしまう、オートバイ乗りの悲しい性。
 翌日中国公安当局の交通講習を受け、免許証とバイクの臨時ナンバーがライダーひとりひとりに手渡された。特に街中での走行ではは時速60km、追い抜き禁止、決められた時間区間以外でのバイク走行禁止。当局の指示に従わない場合は即免許没収、強制送還と言うきつい話に、「でも昨日のバスの運転は何ですか」などと、ジョークを言える者はひとりもいなかった。昨日どんな堅い約束をしても、今日再度確認しなけれぱ、コロリと内容が変わっている事の多い中国である。泣く子も黙る公安当局に気分を悪くされてはガソリンの補給も拒否されかねない。「触らぬ 神にで、とりあえず準備完了。
 人民大会堂で歓迎パーティーが行われ、少数民族の歌や踊り、テーブルに置ききれない程の料理でもてなされた。ここ新彊は奥深い内睦の為、魚介類はほとんど無く、料理は常に羊の肉がメインであった。その羊肉を鉄の串に刺し、独特な香辛料を幾つも振りかけ炭で焼いたシシカバプーはうわさ通 りおいしく、特産で少し甘味のあるワインを皆でラッパ飲みしながら何本も食べた。感迎パーティーの締めくくりは、アントニオ猪木氏がリングで右手を高く突き上げる、あのパフォーマンス「ワン・ツースリー、ダァーッ!」全員完走を誓う雄叫ぴであった。
               
 

 中国に入って6日目の8月12日未明、ホテル友誼飯店の庭で100台のオフロードバイクが闇と静寂を突き破るように一斉にエンジンをスタートさせた。夜明け前の冷い闇の中につぎつぎと閃光を走らせるヘッドライト。出撃前の騎馬が前足で地面 をかくように、ライダー達はアクセルを小刻みに開きエンジンの音を確認した。後方のサポート隊のトラックとバスが一斉にエールのクラクションを鳴らした。 春から現実の夢として準備して来たシルクロードツーリングが今スタートする。私の愛車YAMAHA-SEROWのクラッチレバーに力が入る。「いよいよだな」。揃いの白いヘルメットと赤いジャンパー、そしてカラフルな日本のオフロードバイクが100台ズラリと並んだ。

 ライダー達の顔から昨夜までの陽気な表情は消え、皆気持ちの高ぷりを押さえるかのように一点を見つめ、全神経をスタートの瞬間に集中させていた。10人編隊のリーダーである私は振り返って隊のメンバー達に右手を上げ「いくぞ」と合図した。皆右手の親指を立て完走を誓いあった。先導パトカーの出発を告げるサイレンを合図に、100台のバイクはさらにエンジンの回転を上げ、隊列を組んで次々とスタートした。
  中国の朝は早い。夜明けと同時に街には人と自転車の流れが出来る。事故を避ける為その前に街から外に出なければならない。幾つもの角を曲がり、踏切を越え、ただ黙々とバイクの長い編隊は走った。
   20分程で道は街を離れ、まだ闇に包まれた砂漢の中に入って行った。そこはもう紛れもないシルクロードだ。隣り街トルファン(吐魯番)まで約250km、その間には街も村もオアシスも無く、日陰となる樹木一本さえもない。砂利と乾いた土ばかりが限りなく続くゴヒ砂漠である。
  シルクロードの砂漠をバイクで走る、と云うとすごい冒険のように聞こえるが、この旅は中国政府や日本から同行したサポート隊のアシストが付いた招待ツーリングだった。ただし気温45度、強い横風、その中を10台ずつの編隊を組んでふるスピードで走り続けるのは決して楽ではなかった。疲れと眠気で横転するバイク。そしてオクタン価の低い中国のガソリンの為遅れるバイク。初日から無念のリタイヤするバイクもあった。
 西遊記で知られる火焔山のある町トルファン(吐魯番)は、中国で一番海抜の低い所にある。周りを山に囲まれた盆地で、火州と呼ばれたように夏は40度を越す酷暑が30日以上も続く。雨はほとんど降らず、空気は常に乾燥している。その為か、村や町の家はほとんどレンガと土で造られていた。その乾燥気候のお陰で、ベゼクリフ千仏洞を始め高昌故城、交河故城等、二千年を経た遣跡が数多く残されている。
  バイクの後ろに積んだ4本のペットボトルの水がなくなるころトルファンの町外れに到着した。余談だがホテルでもらった湯冷ましや、お茶等、一日4リッター以上 は飲んだだろう、しかし汗は全く感じない、トイレの必要も感じない、知らぬ間に全身から水分が発散していたのだ。バイクは街はずれでもう一度隊列を組み直して街に入場した。中国政府の招待で走る我々の為に、街の各交差点には公安が立ち、交通 を止めて迎え入れてくれた。さらに驚いた事に、沿道には街の人々が大勢並んで手を振り歓迎してくれたのだ。海を越え、砂漠を越えてやってきた同じアジアの同胞に、心からの笑顔で手を振る人々の姿に、今だかって経験しなかった感激を味わった。

 トルファン(吐魯番)はあの西遊記て知られる火焔山のある町である。周りを天山山脈に囲まれた盆地で死海に次いで世界で二番目に海抜が低い所だ。40度以上の高温が例年40日以上あり、年間降水量 はなんと20ミリにも満たないと言う超乾燥地帯である。では水はいったいどこから得ているのかと言うと、「カレーズ」とよばれるこの地方独特の用水路があった。天山山脈の雪解け水を、延々と地下道を堀り抜いて引くのだが、その数およそ千二百本。全ての街や村へ総延長で三千キロにも達すると言う。地下を通 したのはもちろん蒸発を防ぐ為だ。
  ここトルファンの特産はなんといっても葡萄である。味、色、形はいろいろで約200種類もあり味は最高。三元(100円)で食べ放題、皆で葡萄棚の下にゴザを引いて腹一杯食べた。
 バイク走行4日目、100台のバイクは400キロ東のハミ(哈密)へ。ゴビ砂漠を走り、変化の多い山道をもうもうと砂ホコリを立てて走った。途中日本人団体のバスと出会った。20人位 の日本人がそれと気づいて窓から盛んに手を振り「頑張って〜!」と叫んでくれたのだ。こんな砂漠の真ん中で出会うなんて、無性にうれしくて私も手を振って答えた。
 走行5日目、ハミからさらに東へ400キロのトンコウ(敦煌)へ。途中このツーリング最大の難所、シンシンキョウ(星星峡)のダートコースが待っていた。これこそオフロートバイクにふさわしい道だ。パウダーのような微粒の砂。土大小のジャリ、丘を越え、荒野を走り、道は狭くカープの連続。フリー走行の為私達はラリーのつもりでカッ飛ばしスピードを競った。転倒車も続出したが、ライダーにとっては大満足の気分だった。
 井上靖の本で広く知られるようになった「敦煌」は「盛大」と言う意味があり、漢唐の時代のシルクロードの要地で西域への三つの主要ルートの出発点であった。ここには崖を500余りの石窟を掘って仏を奉納した莫高窟(ばっこうくつ)があり、世界遺産として認められている。そこに描かれた数々の壁画は「形象化された百科辞典」と言われている。そこには歴史、美術、音楽、仏教故事等、当時の文化や生活の模様が描かれているからだ。
 翌朝7時、まだ夜明前。いよいよゴール嘉峪関に向けて出発。気温は10度、まだ街は眠っている。ライトを付けて整然と門をでる100台のオートバイは、さながら赤穂浪士の出陣のような気分であった。二輪車の免許を取ってまだ一年。経験の浅い私も無事完走出来そうだ。一時間程走ったころ、前方の地平線が次第に明るくなり、大きな朝日が昇り始めた。その朝日を迎えるように100台のバイクはさらにエンジンを加速させた。これは最終日にふさわしい中国の自然の粋な演出なのだ。しばらく走ってから我々はバイクを止め、エンジンを切り、その感激的な日の出に見入った。大きく真っ赤な太陽が昇りきったところで、100人のライダーと100人のサポート隊から一斉に拍手と歓声が湧き上がった。出来たら又いつかここで、この日の出にお目にかかりたいと誰もが思ったに違いない。
  

 バイク走行最終日は敦煌から嘉峪関までの400km。何ひとつ見る景色のないガレ砂漠と真夏の直射日光の中を単純走行。ライダーにとってこれが一番つらく、眠気との戦いとなる。一回の休憩をはさんで約5時間の走行中、眠気覚ましに何十曲歌ったろうか。  
  ゴールセレモニーは1500年前に造られた明の城、雄関城楼内で市長を始め政府関係者の出迎えで盛大に行われた。そして、そこから市内のホテルまで、沿道の沢山の市民の祝福を受けながら走る気持ちは、まるて本懐を遂げた赤穂浪士が主君が眠る泉岳寺へ向かう様のようであった。良いのだろうか、こんなにまでの歓迎を受けて、そう思いながらホテルに着くと、およそ300人位 の児童が門の入り口で待っていた。制服を着た鼓笛隊の演奏に合わせてピンクやグリーンの可愛いドレス姿の女の子達が歌いながら踊っている。聞くと3時間以上も前から我々の到着を待っていたと言う。我々はもうたまらない気持ちでバイクを降り、一緒に手をたたきながら子供達の中に飛び込んていった。

後記:中国はこの11年間で急速な高度成長を遂げている。西域もしかり。このシルクロードツーリングがきっかけで、私はウルムチの少年が日本に留学する時の身元引受人になった。「封虎」君だ。中野の日本語を出て、千葉大の建築科を卒業。今都内の建築会社に勤務している。実は私の父も満州からの引揚げ者で、他の学生の身元引き受けをしていた。私と中国との付き合いはこれからもっと深まっていくだろう。  

(皆様、最後までお読み下さりありがとうございました。)

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