#02 2001年夏 スペインバイク一人旅
はっぴーとーく樹音 店主:東賢太郎(53才)

 

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太陽の海岸「コスタ・デル・ソル」
巡礼の道「カミノ・デ・サンティアゴ」を訪ね
スペイン一周のバイクツーリング6000kmの旅

 

< 古都トレドで出会った美しい中年女性 >

 小さな広場で腰をかけてリンゴをかじっていたら中年のスペイン女性が私に近寄ってきた。 昔「オサダ」と云う日本人とマドリッドで一緒に暮らしていたと云う。そして私がその男に 似ていると云って微笑んだ。片言の日本語を話すので近くのバル( BAR:どこにでもある小 さな酒場 ) に行って一緒にビールを飲んだ。色がくすみ、角がまるくほころびた二人の写真 も見せてくれた。ほっそりとして精悍な顔をしたその男性が今どこにいるかは分からないと云う。まつ毛が長く黒い瞳をしたその女性は、自分を「マリコ」と名乗った。私は「日本の 名前?」と聞こうと思ったが、胸がつまってただ笑ってうなずいた。時には懐かしそうに、 時にはさみしそうに話す彼女。私は聞きながらなぜか涙が流れた。別れ際に写真をとカメラを向けたら彼女は笑って背中をむけた。                       


< コスタ・デル・ソルで歌った“明日があるさ” >

 トレドからさらに南下するとラ・マンチャ地方。そしてセビーリアやグラナダのあるアン ダルシア地方に入る。各地を駆け足で巡ってたどり着いた「マラガ」は地中海のリゾービー チ、 コスタ・デル・ソル( 太陽の海岸 )の玄関口で街はたくさんの人々でにぎわっていた。
 この地中海に面した約1000kmもの長い海岸は南端のアルヘシラスからバレンシア、 カタルーニャ地方の中心バルセロナ、そしてフランス国境に近いフェゲラスまで途切れる場 所のない程美しい海岸線が延々と続く。夏はヨーロッパ各地からリゾート客が訪れて長いバ カンスを楽しむ所である。 この地域の建物は太陽の強い日差しを反射させる為に全てまぶしいばかりの白壁で、空と海の青さとのコントラストが実にまぶしく美しかった。     
 バカンスまっただ中のこの時期、私はマラガで何軒もホテルをあたったが全てコンプレート(満室)と断られた。2時間探してやっとみつけたペンションは旧市街の路地の片隅にあり、一泊3000ペセタ、約二千円のベッドと洗面台だけの狭い部屋だった。スペインでペンションと云うと長期滞在者の為の安宿の事である。                 
  夜の街を散策して部屋にもどると隣部屋のフランス男がビーノ(ワイン )を見せて声を掛けてきた。これで一杯やろうよ。旅行者同士は英語が共通語で、お互いたどたどしい会話で旅の話がはずんだ。彼はここでもう3週間スペイン語を習う為に滞在しているそうでペンションの娘とも仲が良いと自慢した。そこでそのセニョリータも呼び、彼女のギターで歌ったり、際どいスペイン語を教わたり、大いに盛り上がった。ちなみに私が歌った歌は「明日があるさ」、これをアスタ・マニャナ(じゃあ又明日) と歌い、受けて何度も歌わせられた。
 


< フェリーでアフリカのスペイン領セルタへ > 

 翌日、彼等とはすれ違いで別れも言えず次の訪問地アフリカにあるスペイン領セルタへ向けて出発した。スペインの南端アルヘシラスからジブラルタル海峡をフェリーで渡るとそこはもうアフリカの大地。 わずか1時間半の距離である。当初予定していたモロッコのカサブランカ行きはバイクの持ち込み、そして持ち帰りなどかなり厳しい税関検査や日数の関係であきらめた。                                   
 フェリーで渡ったアフリカのスペイン領セルタは夏のフェスタで街をあげて大変な賑わいだった。 夏のスペインでは夜10時頃から本格的に人が表にくり出し、夜中の2時や3時まで外のテラスで酒を飲む。日中40度位まで暑くなる真夏でも湿気がない為に過ごしやすく、室内には冷房のないところが多い。街のバルやカフェテリア、レストランでは外のテーブルが一等席として好まれているようだ。日本のように夜遊びする場所は少なく、人々はとにかく酒を飲んで最近の出来事をおしゃべりする。どの街にも必ず幾つかある街なかの広場は、おしゃべりの為に集まって来る人々でいっぱいになる。               
 翌日再度来た道を戻り、シーズンで渋滞をしているコスタ・デル・ソルの海岸道路をすり抜けながらバレンシア方面に北上した。その日の目的地は洗練された大人のリゾートビーチ「アリカンテ」だ。その街にはそれまで余りに美しい景色の連続と、思い出深い体験に浮かれていた私の心を戒めるように大きなトラブルが2つも待ち構えていた。        
                                      

 

< わずか5秒のホットなコミュニケーション >

 コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)の西側はコスタ・デラ・ルス(光の海岸)、 東側はコスタ・ブランカ(白い海岸)。スペインの地中海沿岸はフランス国境 に近いリアス式海岸の「コスタ・デル・ブラバ」まで約1000kmも美しい 海岸が続く。        
 アフリカ大陸に一番近いアルヘシラスから一旦マラガにもどり、地中海の高 級リゾートビーチ「アリカンテ」を目指した。海岸線を走ると灼熱の太陽で眩 しい程に白いカサブランカ(白い家)が、いくつも集まって村を形成している のが見えた。そのひとつが雑誌のグラビアによく登場する、地中海を見下ろす 丘にある「ネルハの白い村」であった。  
 ブエナビスタ(景色が良い)で雨が少ないスペイン南部はバイクで旅する人が多い。ほとんどがタンデム(二人乗り)でバイクの後に彼女か奥さんを乗せ てフランスやイタリア、そしてドイツの方からも走ってくる。                        
 道路ですれ違う ツーリングのバイク同士は手を振り親指を立てて挨拶を交わす。実はこのたっ た5秒のコミュニケーションにはライダー同士だけが分かるホットな会話が隠されている。「いい走りしてるね、その先の景色は最高だよ」「そっちはタン デムでいいね、道中気をつけて下さいな」と心は通じているのだ。ドライブイ ンやガソリンスタンドでバイク同士は必ず言葉を交わす。生身で風を切って走 るライダー達の心はいつもオープンなのだ。                                     



< 旅の途中リタイヤが頭をかすめたトラブル >

 アリカンテに一泊した翌朝、前夜のバル(居酒屋)で知り合ったドイツ人の 船を見るためににぎやかな海岸通りをハーバーへ急いだ。気温は35度を越え 直射日光で熱せられた道路にこぼれているオイルが光って気になった。気を付 けようと思ったその瞬間、前の車の急ブレーキに私は対応できずスリップして 横転。650ccの重いバイクと私は一瞬にして堅い道路にたたきつけられコン クリートの地面を滑った。私は1〜2回転しながらまるでスローモーションの ように飛び散っていくウインカーやバックミラーの破片を必死に目で追った。 このバイクが使えなくなったら旅はここで終わってしまう。代わりの部品なんぞは持っていないから自分の体よりも気になったのだ。後ろを振り向くと、す れすれのところにプジョーが止まり、口に手をあてながら老女が飛び出して来 た。すぐに沢山の人が駆け寄り私を取り囲んだ。右腕と肩を打ち、擦り傷で腕 と足から血がたらたら流れ、右足の膝から下はしびれて感覚がない。 「 やってしまった」旅はまだ始まったばかりなのに。
  誰かが「アンバランス (救急車)」と何度も大きな声で叫んだ。私はあわてて手を挙げて「ノ、ノ、」と 云いながら立ち上がって見せた。ここで救急車なんぞ呼ばれたら旅が中断して しまう。歩いてみたらどうにか膝も曲がった。手伝ってもらってバイクを起こし歩道 に寄せた。ブレーキやアクセルのレバーは折れずに健在。エンジンの音にも違 和感はない。よかった走れる。日本のバイクは偉い。いやこのてのバイクは転 倒有り、を前提として製作されているから丈夫なのだ。カメラやビデオで私の惨事を記念に写している奴等もいた。ちくしょうVサ インでもポーズしてやれば良かった。たまらず思いっきりの笑顔でグラシアス (ありがとう)を連発してとりまく沢山の見物人を解散させた。      
 飛び散った部品のかけらを拾い集めて修理する間、近くの商店のおじいさん と、その孫らしい10歳位の女の子がそばでずっと見守り気使ってくれた。 バイクの傍らでひざを曲げて座り込み私の仕事をジーッとのぞき込むその子の 目の可愛いこと。目線が合うと口元の口角をきゅっと上げてニコッと笑うその 表情はドキッとさせられる程で、事故を起こしたことを忘れる程だった。どこ からか持ってきてくれた腕の傷につける薬やバンソウコウと、冷たいミネラル 水は涙が出る程うれしかった。私はお礼に持っていた扇子と風呂敷を二人に渡 して別れた。                              



< 心の動揺がさらに新たな災難を呼び込んだ >

 遅れて行ったハーバーにはもうそのドイツ人とそれらしき船は見当たらなか った。気を取り直して近くのビーチにバイクを止め、ベンチでしばらくにぎや かなビーチをボーッと眺めていた。ふと我に返って後ろのバイクを振り返った。 肩から下ろしてバイク座席に置いたリュックがない。まさか、まさかの盗難だ。 「おい、勘弁してくれよ」と泣きを入れても後の祭。さっきの事故からわずか 一時間もたっていなかった。分かっていながらスキを作った自分が情けなく、 こぶしで何度もベンチをたたいた。            
 リュックの中身は着替えやガイドブック、友人の住所録や毎日綴った旅の日 記等、盗人には無意味な品ばかりだが私にとっては貴重な品ばかりであった。           
 とにかくポリシア( 警察 )へ行き被害届をだした。その紙を持ってその場を 去った女性係官が戻ってきたのは約40分後、アチコチ問い合わせたりして探 してくれていたのだろう。「どうでしたか?」の私の問いに「コピー機の調子 が悪かったの・・これが控え、出たら連絡するけどまず無理!」と云って首 をすくめて見せた。「オーイ、勘弁してくれよ。コピーにそんなに時間はかか らんだろう。今そこで俺を待たせて同僚と長話していたのも世間話だったんだ ろう。このアホ」と日本語で言ってやった。          
 ビーチに戻ると仲の良い若いカップルや中年の男女が人目をはばからず寄り 添い、愛を確かめあっていた。うらやましいかった。スペインでは前の独裁者 フランコ将軍が死ぬまで、どんな理由があろうと法律で離婚が許されていなか った。だからでもないだろうが、街角であろうが、マクドナルドであろうが頻 繁に愛を確認しあっている。落ち込んだ私にはそう見えてしかたがなかった。
 そんな最悪の気分を転換させるには走るしかない。私は200km先のバレ ンシアに向けて真昼の太陽の下、バイクを走らせた。

< バレンシアで出会った一人旅の日本女性 >

 海岸線から少し内陸に入って丘の切り通しを走ると、時折火砕流のような熱風が全身を襲った。ぞーっとして前に進むことを何度か躊躇した程であったが、 前から来る車に異常がなさそうだったので前進した。後で考えるとお笑いだが その時は本気で恐かった。この時期真夏の強い太陽で山肌が熱せられ、さらに アフリカのサハラで熱せられた熱い風が、地中海を渡ってくるからだ。
 午後2時、火祭りとパエリアで知られるバレンシアに到着。そこはカタルーニャ地方の南に位置するスペイン第3の大きな都市である。翌日市内を徒歩で散策しながら最後に大聖堂に向かった。13世紀に建設が始まった この大聖堂は完成まで約200年も要したと 云う。その為ロマネスク、ゴ シック、そしてバロックと、それぞれの時代の様式が混在て 完成した。
 大聖堂の入り口でひとり階段に腰掛けてノートを開いている日本人らしい女性がいた。マドリッドを出てからそれまで一度も日本人に会う事のなかった私は、躊躇せず声をかけた「ハポネス?」、「はい」と彼女は驚いたような顔で私を見上 げた。大聖堂前の広場にある小さなカフェのテラスに座っておしゃべりを始めた。
 私は彼女に「今日で何日目?」と切り出した。がすぐにしまったと思った。 しっかり日焼けした顔や、中東テイストの服装をみれば何日とすぐ答えられ る程の日数ではないとすぐに気がついたからだ。答えが返ってくる2〜3秒の間に、私は30年前ロシア経由でヨーロッパを目指す為に横浜から乗った ソ連の船「バイカル号」でのことを思い出した。

< 欧州に向け、バイカル号で旅立った若者達 >

 1971年2月24日、あの三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊総指令部を襲撃して腹を切った翌年である。まだ寒いその時期、乗客はロシア人やアメリカ人の他に、数人の日本人の年輩者と、 20歳前後の男女が私を入れて4人ずつだった。船出の時の見送り は少なく、別れのテープもすぐに切れて 油の浮いた海に消えた。私達8人は デッキで離れて行く陸地を眺めながらしばらく押し黙ったままだった。未知 の国、未知の体験に船出することに不安と期待で緊張していたのだろう。
 隣にいた男の子のジャンパーの左手に沢山の寄せ書きがあった。その中央 に少し大きくグローバルと云う英字が見えた。「どこへ行くの?何日位?」 20歳位のその男の子は「切符は片道、北欧で皿洗いをしながら資金を稼ぎ ヨーロッパからアフリカに渡りたい。いつ帰るか分からない」と、淡々と答 えた。当時為替は固定で1ドル360円。持ち出しは500ドルまでした許 されなかった時代だ。
 そばにいた19歳の小柄で素朴な感じの女の子は「イタリアへ服飾の勉強 に行くの、期間は最低3年、あてはないけど」と少しなまりのある声でボソ ボソと話した。うつむき加減に話すその子の目は潤んでいた。親の反対、こ れからの不安、いろいろあっただろう。
  他の若者も皆単独旅行でそれぞれの 思いを胸に秘め、浮かれた気分で海外旅行と云う若者は一人もいなかった。
 船で津軽海峡を横切りナホトカまで。列車でハバロフスクへ。プロペラ機 でモスクワへ飛び、そこから列車で東欧を通って西欧の玄関ウイーンまで一 週間かかるロシア経由が当時一番安い方法だったのだ。当時往復15万円。解散地ウイーンに着くまでの一週間、私はそのイタリア行きの娘に恋をし た。零下20度のモスクワの街を道に迷いながら何時間も歩いた二人。 若い男女8人のそれぞれのドラマはわずか1週間では完結しない。ウイーンで私も切ない別れを味わった。

< 目的地が見つからない女性のひとり旅 >

 広場のカフェで指を折って数えていた彼女の答えは「日本を出てからもうすぐ7ヶ月」と予想通りの答えが返った。「タイの居心地が良かったの で2ヵ月、ネパールでも約2ヵ月間トレッキングで山の中にいました。その 後バスを乗り継いでイタリアへ入り・・・」ここまでの道筋は女性ひ とりでよく無事に、と思わせられた。「とりあえずポルトガルまで行って、 その後トルコのイスタンブールまで戻ります。多分しばらくそこに落ち着くかもしれません」と云う彼女は「もういい歳なんです。帰国した後のことを 考えると、それに多分もうこんな旅はできないから」 と。彼女にとってこの旅は夢の中の世界で、帰ると待っているのは超現実の世 界なのかもしれない。夢から覚めたくなくてまだまだ旅を続けるだろうな、と彼女の横顔を見ながら思った。徳島で看護婦をしていたと云う彼女に写真を撮らせて、と云うとあわてて髪を直し笑 顔を向けてくれた。タミコさんと云う、えくぼのみえる可愛い人だった。                            
 彼女と別れた私は急に思い立って500km離れたガウディーの街バルセロナを目指して地中海沿い に北上した。

 

つづく

 


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