#最終回 2001年夏 スペインバイク一人旅
はっぴーとーく樹音 店主:東賢太郎(53才)

 

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太陽の海岸「コスタ・デル・ソル」
巡礼の道「カミノ・デ・サンティアゴ」を訪ね
スペイン一周のバイクツーリング6000kmの旅


< 祈りの街サンティアゴ・デ・コンポステーラ >

 「波瀾万丈至福走行愛燦々ムチョ・ビエナ・ビスタ」、スペインツーリングのハイライト「カミーノ・デ・サンチャゴ(キリスト教巡礼の道)」を走破し、8月8日スペイン 北西端 に位置するキリスト教三大聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに着いた。青空の下の大聖堂前広場は、ヨーロッパ各地からこの地を目指してきた人々で賑わっていた。この広場は聖堂の建設中石きり場(オブラドレス)として使われていたことから、現在オブラドイロ広場と呼ばれている。大聖堂は1075年に建設が始まり、約200年かかって完成したロマネスクの傑作と云われてる。但し概観は16世紀から17世紀にかけてバロック様式に改められた。大聖堂中央の階段を上がると「栄光の門」がある。ここが巡礼のゴールだ。中に入ると聖ヤコブの像が刻まれた大理石の柱があり、その柱に手を置き祈りを捧げる。長年沢山の巡礼者達が祈りの為に手をあてた5本の指の 跡が残っていた。巡礼の道で会ったあの老夫婦は今日か明日あたりここへゴールするはずだ。私もその柱に手をあてて彼等の無事な到着を祈った。

< 美しい景観のリアス式海岸を巡って >

 翌日大聖堂近くのカフェで静かにお茶を飲んでいるあの老夫婦を見た。 よかった無事にゴールしたんだ。私はホットしてこの街を後にした。サンティアゴから西へ50km程走ると大西洋にぶつかる。その一帯の海岸線をリアス・バハスと云い、入りくんだ海岸がその変化と打ち寄せる波の白さで美しい景観を見せていた。このリアスが岩手県にあるリアス式海岸の言源となっているらしい。小さな岬を曲がる度に目の前にあらわれる景色は正に「ムチョ・ビエナ・ビスタ」素晴らしい景色で感動の連続だった。



< 来年1月、 ユーロが欧州唯一の法定通貨へ >

 走行中ふとタンクバックに目をやると挟んであったミシェランの道路地図が無い。走行中風に飛ばされてしまったのだろう。地図の紛失はこれが二度目だ。今日の目的地はポルトガルのポルト市、大きな都市だから道順はどうでも南下すれば何とかなるだろう。何の予約も誰との約束もない一人旅だから気楽なもんだ。しばらく走ると幅2km程の川にぶつかった。橋を探して上流へ5分程走ると船着き場があり、さ程大きくない双胴船が停泊していた。対岸までのフェリ−らしくすでに10台程の乗用車が乗り込んでいた。バイク料金は700円、「おっ安い、乗ってみよう」気軽に乗り込むとすぐに出航し、緩やかな流れの川をジ−ゼルの音を響かせて走った。乗船客はわずか30人程。皆地元の人達だろう、すぐに賑やかなおしゃべりが始まった。2 0分程で対岸に到着。船着き場近辺に4〜5軒の商店とバル、そしてカフェがあるだけの小さな田舎街だった。川風が清々しい小さなカフェのテラスに座ってフーゴ・デ・ナランハ(オレンジジュース)を注文した。数分して運ばれて来たジュースには何と大きめのペットシュガーが付いて来た。「これいらないよ」と笑いながら日本語で云うと、カフェのおばちゃんは黙ってポケットからもうひとつ出してそこに置き二個ッと笑った。こちらでは何でも甘くして飲むのが好きなんだそ うだ。しかし地方の小さな街に来たせいか訛りがきつくて彼女のスペイン語が全く理解できない。 何か変だ。「ラ・クエンタ(いくらですか?)」と聞いた。
帰って来た答えは「????」何と云ったのかそれも理解できない。しかたがないのでポケットからお金を出して見せた。彼女は手を強く振って拒否のポーズ。「どーなってるんだこれは」一瞬頭に悪い予感が閃いた。「まさか、ひょっとして」 私は恐る恐る地面を指差し「ポーチュガル(ポルトガル)?」と聞いた。すると彼女はそれがどうした、と云う顔つきでうなずいた。では今さっき渡ったあの川は国境だったのか。
 しかしパスポート検査も税関も何もなかったじゃないか。しかしやはりそこは間違いなくポルトガルだった。お金はスペインペセタしかない。言葉は全く勉強してないので数すら数えられない。ポルトガルに関する情報や会話の本は、スペインの南海岸アリカンテで盗まれたリュックの中だ。何の心の準備もないまま知らぬ間に国境を越えてしまったのだ。焦った。 そう云えば欧州12カ国は、来年1月からユーロが唯一の法定通貨として実施本番となる。そうなるとヨーロッパ各国間の経済活動の垣根が取り払われ、国境の通過も今よりかなり簡単になる。スペインとポルトガルは隣国で兄弟のように密接な関係があるので、既に急速な自由化が進んでいたのだ。後日ポルトガルから陸路でスペインに再入国する時など何時国境を通過したのか全く気付かなかった。つまり車で川崎から横浜に移動するようなものなのだ。   



< 再び襲った災難と知床旅情 >

 カードも使えないので私はとりあえずスペインペセタを少し多めに渡してカフェを出た。こんな地方では両替えのできる所はなく英語も通じない。とにかく今日の目的地ポルト(ポルトガル第の都市)へ行くしかなかった。しかし走り出したが地図がない。大きな街道は遠く離れて方向がよく分からない。何度も迷って時間ばかりが過ぎ、知らぬ間に小さな牧場に迷い込んだ。これが不幸の始まりだった。間違いに気が付き慌ててUターンをした場所は泥と??のぬかるみだった。ハンドルをとられ転倒してしまったそこは、牛の汚物処理場付近だったのだ。どんな状況だったかは「悲惨だった」 としか言い様がない。このままじゃ走れない。近くに母屋があったので何度か声をかけたが返事がない。裏に回ると大きな水桶があった。無許可だが汚れた服やバッグを洗わせてもらった。体の汗まで流していたその時、突然家の窓が開いてヒゲをはやしたおやじが顔を突きだし興奮した声でどなった。「???????」。何と云ったか分からないが腰が抜ける程おどろいた。とにかく「パルドン」と必死であやまったのだがおやじが外に飛び出して来た。そのおやじの右手には長い棒が、ただしその恰好はパンツ一枚。
 そう云えばその時間はシエスタ(酷暑の夏は昼食後昼寝をし、夕方から又働く習慣)だった。言葉も通じないので私はころげるようにバイクでその場を去った。数分走って、あの場に荷物を置き忘れたのに気が付いた。「又だよ、まいったな」しかたがない、Uターンしてすごすごと牧場に舞い戻った。母屋の前に若い男性が立って待っていた。
 彼は英語を話したので事情を話すと笑って同情してくれた。しかし「水は貴重なんだよ」とさとされた。ドラム缶程の桶の水を半分以上使ってしまったのだ。 荷物を積んで走りだそうとすると、暗くなるから分かりやすい街道まで案内してくれると云う。
 「うれしい!」するとあのおやじさんも一緒に行くと云って車に乗った。小さなトラックの後を追ってバイクを走らせていたら「旅〜の情け〜が、酔う程〜にさまよい」と知床旅情が自然に口をついてでた。この歌は私が浪人中の夏、北海道をヒッチハイクしていた時に全道で頻繁に流れていた森繁久弥の歌だ。走りながらさらに「忘れちゃ〜いやだ〜よ、気紛れカラスさん〜、私を泣かすな〜白いカモメよ」と何度も歌いながらひとりで感激し涙を流した。「アホだな俺も」この歳になると涙腺が弱くなって困る。走る事30分。遠いのに高速道路の入り口まで案内してくれた。
 「オブリガード」私が唯一知っているポルトガル語だ。別れ際あのおやじさんがやさしい笑顔で何か云い手を差しだした。言葉は分からなかったが、おやじさんの手を握り、嬉しくて又涙が込み上げた。こんな風に旅の途中私に情けをくれた人は数多い。 私はそんな人々とのふれあいが恋しくてよくひとり旅にでる。
 「情けに報いる」と書くと「情報」となる。だとすると本来情報には心が必要だよな。と又訳の分からぬことを考えながら夜道をかっ飛ばした。   

 < 哀愁のポルトガル民謡ファド >

  ポルトガルは人口約1000万人のヨーロッパ最西端の国だ。大航海時代と云われた15世紀頃には7つの海に君臨し、植民地を作り大きな富みを得た。しかし1755年の首都リスボン大地震の頃から徐々に衰退していった。地図で見ると東西に約200km、南北に600km、広さは北海道位かもしれない。 夜遅く「ポルト」に到着。ここはあの甘いポートワインの産地として有名だ。現地通貨を持たないのでカードの使える大きなホテルにチェックインした。ちなみに持参のアメックスはスペイン、ポルトガルでは加盟店が少ない。やはりVISAにすべきだった。ポルトガル訪問では一つの宿題があった。
 ファドを聞くことだ。私の家内は5年程前から趣味でシャンソンを始めた。ステ−ジに立って歌う機会もあり、ファドも歌うらしい。その家内からのリクエストが
「ポルトガルではファドを沢山聞いて来て」だった。ポルトに着いたその夜、グレリゴス教会の裏手にある小さなファドの店へ行った。客は私と2組の年輩のカップルだけ。 ワインを運んできた男性に「ファドは何時から?」と英語で聞くと「もう始めます」と答えた。すぐにギターラ(12弦でマンドリンのような響きのギター)と、ヴィオーラ(普通のガットギター)が表れて演奏が始まった。 ファドの起源はまだ新しく、200年位前から民衆の生活の歌として歌われた。体全体から出る声量で朗々と歌い上げられ、抒情的でもの悲しく、時にはしみじみとした哀調に満ちて聞く人の心の奥までしみ入ってくる。歌い出したのは何とさっきワインを運んできた男性だった。
 小柄だが丸く前に突き出たお腹の底から出るまろやかで力強く感情のこもった歌は、目の前で聞く私の心と体にぐいぐいと入り込んでくる。この味や迫力は今まで私が聞いたことのある音楽のジャンルにはなかった。歌詞はポルトガル語で意味は全く分からないが、人生のむなしさ、宿命、望郷などを民衆が心を癒す為に歌われているようだ。
 ポルトガルはスペインと同じように外から頻繁に侵略を受けて いたので、征服者達に対する 抵抗のメッセージソング等もあったらしい。特にスペインのフランコ将軍 独裁時代に受けた抑圧に対するプロテストソングは多いと云う。一緒に聞いている二組の年配カップルはリフレインの時など一緒になって声を張り上げ歌っていた。     

< 二日酔いでリスボン観光 >

翌日、私はさらに300km南に下ったポルトガルの首都リスボン(リスボア)に入った。7つの丘にまたがる市内の中心街は、石畳の曲がりくねった細い坂道が多い。その道の真ん中を路面電車のレールが走り、電車が頻繁に行き来していた。車と電車と人とがスクランブルしながら際どい距離ですれ違い移動していた。事故にならないのだろうか。バイクにとってはその線路やその溝はスリップや転倒の原因となるので走りずらく、何度もヒヤリとさせられた。露店が沢山でて賑やかなロシオ広場を散策しながら、その夜もファドの店へ行った。100人近く入る大きな店で既にに沢山の客は入り歌が始まっていた。男性、女性、それぞれの二人づつのファディストが登場し、民族舞踏も見せてくれる観光客向けの店だった。私は隣り合わせた日本人女性二人組と帰りに近くのバルにより真夜中迄ワインを酌み交わした。二人は昼は都内の某有名大学英文科在学、夜は銀座のギャバクラでアルバイト中と云う。美人で元気の良い娘達で欧州の歴史や文学にとても詳しく、年に数回海外旅行をしていると云う。話が弾んだ分よく飲んだ。翌朝、物凄い二日酔いで体が重く頭はガンガン。おそらく彼女達はまだ起き上がれずベッドの中だろう。私はチェックアウトで追われ、動かない体にムチ打って又バイクに荷物を積んだ。

< リスボンには大航海時代の名残りがある >

 スペインに水源を持ち、リスボンで大西洋に流れ込む大河テ−ジョ川は、大航海時代に世界の7つの海につながるポルトガルの玄関口として大きな存在であった。その川辺には、その頃の船の出入りを監視する関所「ベレンの塔」が世界遺産として白く壮麗な姿を残していた。又そのスグ近くには大航海時代の主人公エンリケ航海王子の500回忌(1960年)に造られた高さ50mの船の形をした「発見のモニュメント」もある。
 これはリスボンの象徴として写真がよく紹介されている。大航海時代を支えた天文学者や航海士などの偉人達の像を乗せて、今まさに船出するかの様にテージョ川にせり出していた。穏やかで温かいお昼時、私はそのモニュメントの近くにバイクを止めてしばし昼寝を楽しんだ。そこから歩いてすぐの所には、16世紀始めにバスコ・ダ.ガマの偉業を記念して建てられたもうひとつの世界遺産「ジェロニモス修道院」もある。
 ワインがまだ抜けきれない飲酒運転でバイクはリスボンを後にした。今日スペインへ再入国し、明日はマドリッドに帰還する。いくつもの街や村に寄り道し、そして通り抜け、いつ越えたか、どこがそうだったのか分からない国境を越えて夜10時頃マドリッドから南西へ400kmの国境の街「バダホス」に着いた。

< スペインにはデパートがたった一社だけ >

 一夜明けて私は国境の街バダホスを散策した。仕事柄各地の専門店を見て歩くことが好きなのだが、スペインは贅沢な消費国家ではないので店が非常に少ない。まして大型ショッピングセンター等にはなかなか遭遇しなかった。スペインで大規模小売店と言うと、昨年日本にも上陸したフランスの量販店「カルフール」、そしてスペインで現在唯一と云われるデパ−ト「エル・コルテ・イングレス」であろう。両者はそれぞれ地方都市にも点在しており、沢山の顧客を持って繁盛している。後者のデパートを唯一の、と表現したが、実は以前競合していた他のデパートは全て競争に負けて撤退してしまったのだ。したがって今ではスペイン全土でこのデパートの独占となっている。
 日本で云えば全国にデパートは高島屋しかないと云うのと同じ状態だ。なる程店鋪と品揃え、そしてスタッフ教育もしっかりしていた。 一階の化粧品売り場は日本のデパートと同じ雰囲気で、資生堂とカネボウが中央の良い場所に位置し、スペシャリティーなスペイン女性に人気を得ていた。 ヨーロッパでは日本の化粧品は高品質でグレードの高い高級ブランドである。日本の研究開発技術は世界的に信頼が厚く、例えば外資系の人気ブランド「ブルガリ」や「アナスイ」「ソニアリキエル」等は全て日本のアルビオン化粧品が企画、研究、製造をしている。 あまり知られていないが事実である。

< 1ペセタの価値もなかった一万円札 >

  各地にあるこのエル・コルテ・イングレスの地下売り場には大概両替え所がある。 ペセタを一銭も持っていない私はそこで一万円札を一枚出した。カウンターの女性は初めて 見るお札らしく、しばらくして後ろのオフィスへそれを持って入った。
散々待たされて出た解答は「これが本物かどうか確認できない」と云って断られた。「そんな馬鹿な」。奥から出て来た男性社員が世界のお札の見本帳を持ってきて
「これと違う」と云って指差した。そのお札の右上には赤いインクで「見本」と印字されていた。つまりそれがないから本物ではないと言い張るのだ。「いやまいった」これはサンプルの意味だ、と何度も説明したが受け付けない。その日は8月12日の日曜日、バンコ(銀行)はどこも休み。手持ちのポルトガルエスクードは小銭ばかりで両替えは不可。笑い話しではなく深刻に困り何度も食い下がった。しかし答えは冷たく「ノ、ノ、」。地方では日本の存在なんてそんなもんなんだ、とあきらめてそのデパートを後にした。
 外に出るとすぐ後ろから「セニョ−ル」と女性の声がする。振り返るとさっきの両替店の女性だった。あのモー娘の後藤に似た可愛い娘で、小銭を個人的に両替えしてくれると云う。そして円を両替えできなかったことをとても気にしてくれた。おいそんなに優しくしてくれるなよ、ウルウルしちゃうぜ。そう思いながらもその言葉に甘えた。1500ペセタ(約千円)になった。私はその街をでる前に再度そのカウンターを訪れ「ムチョ・グラシアス、ハポネス・ムシカ(音楽)」と日本の音楽をダビングしたMDを渡した。声を上げて喜んでくれた可愛い女性スタッフ三人をデジカメに納め、私は気分良くバダホスを後にした。あれもこれも皆スペインの気質なんだ。私はますますスペインが好きになった。後で発覚したのだが、尾崎豊の歌のつもりで渡したMDが手元に有り、北島三郎の「は〜るばる来たぜ函館へ」の函館の女から薩摩の女までの「女シリーズ」が見当たらない。昔からこういった失敗が多い男だ。
 ちなみにサブちゃんのこのアルバムは学生時代から私の朝のベスト目覚まし歌である。今日はバイク旅行の最終日、マドリッドに帰る日。心も軽くマドリッド凱旋をめざしてアクセルを蒸かせた。「は〜るばる来たぜスペインへ〜」、おい誰も聞いてないぜ。  

< 魅力的なスペイン女性達に懺悔 >

  夕方の5時マドリードのグランビア通りに帰着。 無事に帰ってこれたことにホットした私は賑やかな 広場のベンチで長い時間道行く人々を眺めた。 傍らでおやじがサックスを吹いて小銭を得ていた。「オール・オブ・ミーをやって」私もコインを一枚 入れてリクエストした。演奏はなかなかのもんで何曲もリクエストした。但し、4小節毎に吹くのをやめて道行く人に「金入れて!」と空き缶を指差している。 それじゃ立ち止まって聞いてはくれないのに。 さてこんな話しを書くのはまずいかなと思いながらも、余り堅く考えずに少し触れておきたい。スペインの女性はとても魅力的だった。特に若い女性は欧州人らしからず小柄でスタイルが良く、整った顔だちで皆可愛いかった。大き過ぎず形良く引き締まったヒップライン。そのラインを強調するようにピッタリしたスラックスをはき、下着のラインは全く見えなかった。皆Tバックだからだ。そしてキリッとくびれたウエストラインをすっきり強調するためだろう、ベルトをする人を全く見かけない。日本ではこの夏ベルトが大きなポイントとして注目されていたはずだ。
 トップスはほとんどタンクトップで、大き目のバストはピンと前に出て形良く、見るからに柔らかそうで心を誘われた。さらにおへそ出しはもう皆公然のお約束だった。薄手で短目のキャミソール一枚と云う女性も多く、一時期批判された日本の若い女性より肌の露出度は確実に高かった。とにかく服装は皆シンプルで判で押したようにこのスタイルだった。顔は細く鼻は小振りで形良く、瞳がきれいでまつ毛も濃く長い。眉は少し整える程度で自然で若々しく新鮮に感じさせられた。道ですれ違う女性を何度立ち止まって振り返っただろう。特に香水の香りを感じさせられると12〜3歩は後を追ってしまう。地図を広げて道を訪ねる時にそんな女性ばかりを待って訪ねた行為は不謹慎だっただろうか。だとすると相当懺悔をしなければならない。



< スペイン民族の地理的、歴史的特性 >

 他のヨーロッパ女性との民族的特性を調べてみた。スペインは立地的にヨーロッパ大陸の南西に突き出たイベリア半島に位 置し、隣国フランスとの国境をピレネー山脈で仕切られている。そのため古来より「ピレネーを越えるとそこはもうヨーロッパではない」と云われ、他のヨーロッパ諸国とは一線をきするものがあった。一方のスペイン南端は北アフリカとジブラルタル海峡を挟んでわずか13kmと近く、古くから人や文化の交流が活発だった。その為このイベリア半島はヨーロッパとアフリカの混血半島と云われてきた。歴史的には5世紀頃、北欧のゲルマン民族から発した西ゴート族の侵略を受け8世紀頃まで占領された。そしてその後今度は北アフリカから侵入してきたイスラムに何世紀にも渡り征服されたのだ。その為各地にはイスラム名の地名や建物、その文化が根強く残っている。その後8世紀から15世紀と長きに渡って繰り広げられたレコンキスタ(国土回復戦争:キリスト教徒によるイスラムからの国土の奪回)に勝利し、その後のスペインはアメリカ大陸発見等の大海時代に入った。このように今のスペイン人は多くの民族との交流と結合により、他の欧州諸国とは違う混血の可愛い女性達が生まれたと云える。これは私の全く無責任な素人解釈だ。まとめはやはり私らしく軟派な締めとなった;;

< シルクロード経由成田行ビジネスクラス >

 8月14日早朝、レンタルバイクショップのホセ氏の見送りを受けて、マドリッドの バラハス国際空港を離陸。途中アムステルダムで乗り換えたオランダ航空は日本人乗客で満員のブッキングオーバーだった。 その為少し遅れてチェックインした私はエコノミーチケットでありながらビジネスクラスに案内された。それも最前列の窓側で眺めが良くスペ−スも一番ゆったりした席だ。最後にこんな幸運のおまけ付きとは全くついている。
 さらに嬉しかったのは、この便が週に1回だけ中国上空を通過する航路を取ることだった。
 昼過ぎに離陸した飛行機は快晴の空をドイツや東欧の景色を見下ろしながら、真夜中に中国上空に差しかかった。各座席にセットされた液晶画面が飛行航路と現在地を正確に表示してくれる。その位置をみると中国の西域、新橿ウイグル自治区の首都ウルムチ上空であった。私は窓にぴったり顔を押しつけて必死にそのウルムチの灯りを探した。見えて来た。真っ暗な地上に一ケ所はっきりと街の灯りが見える。


< 10年前見たシルクロードの満天の星空 >

 今からちょうど10年前1991年8月、私は当時参議院議員だったアントニオ猪木氏の呼び掛けで実施された、日中交流シルクロード ツーリングに参加した。そしてこのウルムチ市からハミ、トルファン、敦煌を訪ねて西安まで、約2000kmをオフロードバイクで走った。真夏のシルクロードは気温40度以上。雨はほとんど降らない超乾燥地帯だ。街から街までの300〜400kmの間には家はおろか日陰になるような一本の木すらない、石や乾いた土だけのガレ砂漠であった。しかし各地で熱烈な歓迎を受けながら中国西域の数々の世界遺産を見て回ることができた。まだ文明の波が十分届いていない当時の西域では、夜になると空気の澄んだ空が満天の星で埋めつくされ、まるでプラネタリュウムを見るようであった。わずかな時間の中でも沢山の流星が走り、眩しい程の夜空をいつまでも見上げていた。いや実はその流星と思った光の大半は人工衛星だった。現在数百個の衛星が地球を回っているらしいが、反射する太陽の光の強さと数の多さに驚かされた。 10年前の同じ日にあの街から見上げた星空から、今度はその街の灯りを見下ろして想い出をたどるなんて、余りにも出来過ぎた偶然だった。
 眼下に見える街灯りや真近に見える星空をひとしきり楽しんだ私は、ゆったりした椅子を 後ろに倒し目を閉じた。
 
そしてこのスペインの旅で出会った 沢山の人々を、 バイクで走った 野や山や美しい海岸線を、心地良い睡魔の中で思い出しながら何時の間にか深い眠りに落ちていった。

(完)

<後書き>

 一旅人の旅行記を4回に渡って書かせて頂きました。素人つのたない文章をお読み 下さった皆様に心から御礼申し上げます。
レンタルバイクショップ「ハッピーライダー」代表のホセ氏には本当にお世話になりました。実はホセ氏の奥さんは日本人で香代さんとおっしゃる。
彼女がアリカンテに語学留学している時に二人は恋に落ちたと云う。
現在小さな二人のお嬢さんと4人でマドリッドで幸せに暮らしている。
その奥様のサポートにも心から感謝を申し上げたい。そして最後に快く送りだしてくれた家族や店のスタッフ達にも心から「ムチョ・グラシアス!」

2001.11.10. 東賢太郎

是非御感想をお寄せ下さい(東賢太郎)

 

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